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メッセージ主題:『主が昼も夜もともなわれる人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.5.26主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年5月26日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:山辺にむかいてわれ

https://www.youtube.com/watch?v=g-T_ZKZ-mkc

賛美②:十字架のかげに

https://www.youtube.com/watch?v=8dq4uQd8CjU&list=RD2C6fy0awrb4&index=3

賛美③:土の器(5月)

https://www.youtube.com/watch?v=aDwBJrvk7bs

賛美④:主の宮

https://www.youtube.com/watch?v=UlGwD10RZc8

賛美⑤:五つのパンと二匹の魚

https://www.youtube.com/watch?v=avJYlW6dVvg

賛美⑥:聖い御霊よ

https://www.youtube.com/watch?v=SsaEezJQCCM

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年5月26日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第13章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「主は、昼は、地上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためである。」(21)

メッセージ主題:『主が昼も夜もともなわれる人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

出エジプト記13章では、除酵祭のことと主が常に共におられるしるしとしての火の柱、雲の柱のことが記されています。

除酵祭とは、ユダヤ教の祭日で、「種入れぬパンの祭り」とも言われ、ユダヤ暦の1月にあたるニサンまたはアビブの月(太陽暦の3月か4月)、その月の14日の夜に行われる過越の祭に続く1週間のことです。イスラエルの民がエジプト脱出の夜、種(酵母)を入れないパンをもって出たとして、1週間、マッツァーと呼ばれる種なしパンを食べる祭りで、エジプトからの解放を主に感謝するとともに、子孫にその意味を伝えることを重んじています。現代のクリスチャンにおいては、この過ぎ越しの意味をわすれるなという戒めは、イエス・キリストの十字架での贖い、イエス・キリストの血潮によって私たちの過去現在未来における罪が帳消しとなる、この恵みを忘れてはいけないということと同じであります。パウロは、2テモテ2章8節に次のように訴えています。新改訳2017年版ではなく、第三版でお読みします。●「私の福音にいうとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」つまり、イエス・キリストの恵みを忘れるなということです。

しかし、出エジプトの時の過越は、信仰の旅の始まりでしかありません。私たちで言うところの、イエス・キリストを救い主として信じ信仰生活を始めたという決断、信仰を明らかにした洗礼の儀式のときと同じであります。洗礼は、信仰生活の始まりであり、終わりではありません。それと同じように、イスラエルの民がエジプトを脱出したのは、救いの完成ではなく、救いの初めであり、そこから40年という長きにわたる信仰の旅があり、その末に、約束の地、カナンへと到着するのであります。そして、その40年の信仰の旅には、昼は雲の柱、夜は火の柱が現れ、主がその中にいらして、イスラエルの民と共にいて、導かれるのであります。40年という長い過酷な旅路の中で、民が約束の地に到着するという希望を失わないように、主がつきっきりで導かれるのであります。目に見えない神では、民が不安になり、希望を失いかねないので、神は目に見える雲の柱と火の柱を現わせて、神がつねに伴われていることを告げ知らされたのであります。

また、神は他の民族との争いをさけ、イスラエルの民に遠回りをさせました。それは17節●「民が戦いを見て心変わりをし、エジプトに引き返すといけない。」という配慮でした。エジプト脱出には、それだけでも試練が待ち受けていましたから、不安材料をなるべく避け、民の平安を保とうとされたのです。神はそれほどまでに、イスラエルの民を愛し、導かれるのでした。

もちろん、現代の私たちキリスト者にも、神は同じ愛を注いでいてくださいます。いえ、イスラエルの民以上かもしれません。私たちには、イエス・キリストという救い主贖い主が与えられ、もちろん、今は、イエス様のお姿を拝見することはできませんが、イエス・キリストを信じる者には、キリストの平安であり助け主である聖霊が心にお住まい下さり、キリスト者を約束の地「乳と蜜の流れる地」つまり「天の御国」へといざなおうとされるのです。そのために、その助け主は、罪を犯しにくい性質へとキリスト者を変えられるのです。もちろん、罪を犯しにくい性質には個人差がありますが、全員、この世の生を全うした時には、キリストの血潮の贖いによって、また、復活という贖いの証印によって「罪なき者」と見なされるのです。

しかし、私たち人間は実に弱い、弱っちい虫けら同然の者です。モーセの時代から、技術は進歩したかも知れませんが、人の心は、いたって罪人のままです。全く変わりません。聖書に記述されている罪やあらがいは、今も昔も変わらずあります。人間がこの地上に存在する限り、人の罪は変わりません、なくなりません。目に見えるものに左右されたり、頼ってしまったり。自分自身を過大評価してみたり、過小評価してみたり。神なんかいないのではと疑心暗鬼になってしまったり。しかし神はそのことを丸っぽご存知で、イスラエルの民には、雲の柱と火の柱を現わされました。本当は、現代の私たちも、イスラエルの民と変わらず同じ弱さをもっているのですが、私たちには雲の柱も火の柱もありません。神様に聴き従おうとしても、また聖霊様に導いていただこうとしても、空(くう)を摑むような感じで、まったくもって頼りない。「暖簾に腕押し」「豆腐にかすがい」「糠に釘」以下の状態です。

では、私たちには、イスラエルの民に雲の柱火の柱があったような、神の目に見える導きはないのでしょうか。いいえ。神は私たちのために、最強の見えるものを現わしてくださっています。それは、聖書です。み言葉です。私たちは、雲の柱火の柱と同じぐらい、いえ、それ以上に神様からの導きが聖書の中にあります。私から言わせれば、聖書を読まないクリスチャンは、むちゃくちゃ損をしているのです。実は私も無茶苦茶損をしていた時期がありました。信仰的にすごく落ち込んでいる時でした。でも、やはりすがるのは神様だけと思い直して、聖書を再び読み始めたことを覚えています。聖書には、神様の導きというお宝があるのに、それには目もくれずに、感情や気持ちを重視して、「神様に導かれている」と自己満足していては、イスラエルの民の40年間の放浪以上の回り道をすることにもなりかねません。聖書を読みましょう。いや読んでください。今は便利な世の中となりました。スマホのアプリで聖書を読むことも聞くこともできます。聞いて下さい。パウロが唱えているとおりです。●「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(1コリント1:18) 十字架のことば、つまり聖書のみ言葉は、信じる者には、神の力、生きる力となるのです。み言葉を味わいましょう。そして、静まりの時をもち、黙想し祈りましょう。主の御心がなんであるか、心を通して聞こえてくる主の御声に耳を研ぎすませましょう。主の御声は、私たちの心静まったときに、やっと聞こえてくるぐらいのか細い声の場合が多いのです。

列王記上19章12節●「地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。」このかすかな細い声のぬしこそ、神であります。

さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。「聖書は現代の雲の柱火の柱」このことについてお二人はどう思われますか。

―――――

八: わてな、今日の若さんのゆうてはったように、雲の柱と火の柱が、聖書と同じ役割を

持ってたって、初めて気がついたわ。正直ゆうて、イスラエルの民は、雲の柱火の柱が

あって、ええなぁっておもててん。あんな分かりやすい道しるべがあったら、

ちゃんと「乳と蜜の流れる地」に到着することができるんやから。

イスラエルの民はラッキーやな、、、って。

熊: そやわなぁ。なんも考えんと、ただ、従ってたら、ええんやからなぁ。

八: あほぅ。「なんも考えんと、ただ、従ってたら、ええんや」ちゅうことが、

なかなかでけんで、こまってるんやないかいな。

熊: あ、そうやったわ。イスラエルの民も、気持ち的にゆらいでいくしなぁ。

ほら、金の子牛という偶像も、モーセはんの留守中に、造りはった。

「マナが飽きたから、肉食べさせて」ゆうてみたり。

エジプトで奴隷の方がましやったって愚痴ゆうてみたり。

八: わてら、人間って、ほんまに自己中ちゅうか、自分の思いに左右されることが多いなぁ。

熊: せやから、何かガイドブックがいるんやて。自分の思いではないもんが。

八: それが、聖書の御言葉やちゅうことやわな。

熊: そうなるわな。聖書は神様のおことばや、いぶきや。

その息吹が感じられたらええねんけどな。

八: そやなぁ。パウロはん、第2テモテの3章でこんなことゆうてはるもんな。

●「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを

うけさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと

矯正と義の訓練のために有益です。」(15-16)

熊: やっぱり聖書は、わてらを信仰へと導き、救いをうけさせるためのもので、

雲の柱や火の柱と同なじように、わてらを「乳と蜜の流れる地」へと導いてくださる

んやな。

八: 聖書はお宝の宝庫や、けんどそのお宝を見つけさせてくださるのが、聖霊様や。

イエス様がお送りくださる助け主や。イエス様もおっしゃっておられるやないか。

●「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたに

すべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせて

くださいます。」ちゅうって。

熊: ヨハネの福音書14章26節やな。聖書を読み進めていくうちに、聖霊様によって

そのお宝にであう。

八: その出会いがめちゃんこ大切なんやと思うで。

そのためにも、毎日聖書を読むちゅうことが大切なんやな。

熊: そうおもたら、聖書をよむの、ワクワクするなぁ。お宝見つかったら、小躍りして、、、、

八: ええな、ええなぁ。毎日聖書読むのが楽しくなるわ。宝探しと同じや。

まるで、イエス様の『畑の中の宝』と同じや。

●「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、

それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを

売り払い、その畑を買います。」(マタイ13:44)

熊: あのたとえ話は、天の御国のたとえやろ。けんど聖書のみ言葉が宝物で、

その宝物に天の御国の奥義が隠れているとすれば、めちゃくちゃ、宝探しが楽しくなる。

八: 今まで、ボケーっと聖書を読んでたような気がするわ。宝探しやとおもたら、ええ、

意気込みがちがってくるわ。おもろいなぁ。

ということで、若さん、あと頼んますわな。

今から、聖書の中のお宝探しに行ってきま!ごめんやっしゃぁ!

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。二人とも行ってしまいました。モーセ時代の「雲の柱と火の柱」が、今の聖書、それも聖書の中にあるみ言葉はお宝。モーセ達は、エジプトを脱出し、雲の柱と火の柱に伴われて、約束の地「乳と蜜の流れる地」を目指しました。私たちは、いつの日にか天の御国に入ることを期待しつつ、聖書の中の宝を探し、同時にみ言葉を味わい、日々の生活をワクワクしながら過ごしたいものです。そして、そのことは、主がいつも伴われていることと同じことなのです。

さて、今日も宣言をします。主の導きが聖書にあると確信し、次のことを宣言しましょう。「毎日、聖書の中に隠された宝を捜します。感謝!」です。

では、3回宣言いたしましょう。

「毎日、聖書の中に隠された宝を捜します。感謝!」、「毎日、聖書の中に隠された宝を捜します。感謝!」、「毎日、聖書の中に隠された宝を捜します。感謝!」

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇135篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書6章20-21節。

「自分のために天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」

黙想いたします。詩篇135篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:イエスに栄光あれ

https://www.youtube.com/watch?v=v5sKPkQ68tY

賛美⑨:いのちの木

https://www.youtube.com/watch?v=etqLrZLdkGw

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、6月2日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記14章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/