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メッセージ主題:『主が戦ってくれる人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.6.2主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年6月2日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:罪咎赦され

https://www.youtube.com/watch?v=eZeMi6KzhCE

賛美②:主よ御許に近づかん

https://www.youtube.com/watch?v=wzCCUZRoo2Y

賛美③:五つのパンと二匹の魚(6月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=avJYlW6dVvg

賛美④:悔いた心

https://www.youtube.com/watch?v=HHA6WPhBIao

賛美⑤:やさしいイエス様

https://www.youtube.com/watch?v=kKlg6VTRtSg

賛美⑥:恵み

https://www.youtube.com/watch?v=Md4ZowrT57U

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年6月2日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第14章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(14)

メッセージ主題:『主が戦ってくれる人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

出エジプト記14章では、モーセが民を導いていく中でもっともドラマチックな箇所です。ファラオの軍勢はモーセの民を追って行き、海辺に宿営している彼らに追いつき、モーセの民は大いに恐れてしまいました。モーセはそんな恐れおののく民にたいして、主が戦ってくださり、必ず救いの御手を差し伸ばして下さることを民に説き、元気づけます。そして、事実、海は分けられ、渇いた地面を行くことができ、ファラオの軍勢が追いかけて、分かれた海に入って行った時、主は分れていた海を元通りにし、ファラオの軍勢を海のただ中に投げ込み、ファラオの軍勢は、ことごとく海のもくずと消えてしまいました。主がイスラエルの民のために戦って下さった結果でした。

主が、私たちの代わりに戦ってくださるのは、このモーセの時だけではありません。

第二歴代誌32章でも、主が代わりに戦ってくださることが記されています。ヒゼキヤ王は、アッシリアの大軍が攻め入ることを恐れおののく民に対して次のように激励しました。7節8節。

●「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリアの王や、彼とともにいるすべての大軍を恐れてはならない。おののいてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が、私たちとともにいてくださるからである。彼とともにいる者は肉の腕だが、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主であり、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる。」アーメン!

また士師記7章では、主はギデオンに次のようにおっしゃいました。●「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしは、ミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。」と告げ、3万2千人いた兵を結果的に3百人にまで減らさせ、主が勝利に導きました。主が、「主に頼ること」「主の力は絶大であること」を民に知らせる結果でありました。人間的な戦いは、戦力である兵隊の数や兵器の数でありますが、そのことに心を置きすぎて、主に頼ることを忘れてはいけない。主の力は、全人類を敵に回しても、微動だにしません。ですから、多勢に無勢であったとしても、主が味方であれば、恐れることはないことを示しています。

また、ヨシュア記に記されているエリコの戦い、6章、においても、主はヨシュアに次のように告げられました。●「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。あなたがた戦士はみな町の周りを回れ。町の周囲を一周せよ。六日間そのようにせよ。七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進め。七日目には、あなたがたは七回、街の周りを回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたら、民はみな大声でときの声をあげよ。そうすれば町の城壁は崩れ落ちる。民はそれぞれ、まっすぐに攻め上れ。」(2-5)ヨシュアの軍は主が戦われることによって、勝利を手中におさめました。たった、六日間、角笛をもって、聖櫃を最後列にして、七人の祭司がエリコの町の回り、つまり城壁の外側を回り、七日目は、角笛を吹きながら七回まわり、最後に角笛の音と同時に民が歓声を上げると、城壁が崩れ落ち、エリコの町に攻め入り、勝利を勝ち取りました。ヨシュアの軍勢も、この主の御業に、きっと主をおそれ、主に礼拝をささげたことでしょう。

では、現代の私たちには、主は戦ってくださっておられるのでしょうか。

目に見えるものだけが、私たちの戦いではありません。いえ、目に見えない敵に打ち勝つには、目に見えない主に戦っていただく必要があります。私たちは実に非力だからです。いえ、主に勝るかたはいらっしゃいませんから。私たちは、主を味方につけると、千人力と言いますか、万人力と言いますか。ちょっと乱暴な言い方をしていますね。主が私たちの味方をしてくださるためには、私たちが主のご計画のうちにいないといけません。私たちの計画に主を引き入れるのではなく、主のご計画に、主が私たちを受け入れてくださる、用いてくださる。そのためには、私たちは、主の僕として、主の御声に耳を傾け、聞き従わないといけません。主が味方についてくださることによって、私たちは勝利者となります。勝利者とは、必ずしもこの世的な勝利者ではありませんし、経済的、政治的な勝利者でもなく、名誉を勝ち取る勝利者でもありません。ですから、主が戦ってくださるのは、主の栄光のためです。その意味において、私たちが勝利者となるのは、永遠のいのちの冠を主からいただく時です。パウロはそのことを次のように説きました。

第一コリント9:24●「競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。」「賞を受けるのは一人だけ」という意味は、「信仰を他者と競争しなさい」と言っているのではありません。「信仰は個人的なもの」ですから、一人ひとりに賞が与えられる可能性があるわけです。勝利を得られるように走るには、日ごろからの鍛錬が必要です。パウロは25節で次のように言います。●「競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」パウロの言うところの節制は、はっきりした目標をもち、自分の体を打ちたたいて服従させる、常に罪を犯しがちになる自分を悔い改めるということであります。そして、他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

そのことで、ヘブル人の手紙12章1節2節には、次のようにあります。

●「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせず十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」

話は少し変わりますが、

皆さんは、伴走者というのをご存じでしょうか。視覚障がい者のマラソン、ブラインドマラソンにおいて、ランナーが安心して走れるように付き添う人のことです。伴走者の役割は、①障がい者ランナーの安全確保と状況説明、②理想のフォームを走ってもらえるような伴走、③走路、ペースなどの誘導。楽しく楽に走れるようなエスコ―ト、④タイムなどの記録、だそうです。

私たちは、信仰的に見えているようで見えていない者であって、信仰的視覚障がい者であるともいえるのではないでしょうか。そして、私たちの信仰的伴走者は、イエス様です。イエス様は私たちのことを私たちよりもよくご存じで、どこをどのように走り、勝利者となれるかをご存じです。

イエス様は、次のようにおっしゃいました。●「彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」(マタイ15:14)イエス様は、肉体的な視覚障害のことではなく、神の心を理解していな当時の宗教指導者と呼ばれる人々の心の盲目のことを語っておられます。そして、それは私たちにも同じことが言えます。心が盲目である人、または見えていてもぼんやりとしか見えていない人、それが私たちです。そのような心の目の障がい者には、完璧に信頼し頼れる伴走者が必要なのです。そのことをヘブルの記者は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」と告げるのです。

さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。「勝利者となるために、イエス様から目を離さない」このことについてお二人はどう思われますか。

―――――

八: 「勝利者」なぁ。そういえば、若さんの好きな小坂忠さんの歌にも「勝利者」ちゅうのが

あったなぁ。

熊: ♬「勝利者はいつでも、苦しみ悩みながら、それでも前に向かう」ちゅうやつやな。

八: あれ、「勝利者」ちゅうのに、なんか悲しげなメロディやん。それに歌詞かって、

「苦しみ悩みながら、前に向かう」ちゅうて、なんかしんどそうやん。

熊: 勝利ちゅうのは、苦しさを耐えて、その先にあるもんやちゅうことなんやろ。

八: 勝利したんやから、なんか「ワオー!」ゆうて雄たけびをあげたいぐらいやねんけど、

あの曲はなんかちゃうよな。

熊: あの曲、聞いてるといっつもイエス様の十字架思い出すねん。だって、そやろ。

ゴルゴダの丘目指して重たい十字架背負て上って行くしんどさ。

十字架で、太い釘さされて、肉がさけ骨もぐだけ、襲いかかる激痛。

周りの人の揶揄する声と目線。

けんど、あのお姿から勝利者となられる。主を克服して、よみがえられる。

八: しんどい思いの先の勝利。その勝利には価値があるんやろうけど、わて、

やっぱりしんどいのきらいや。

熊: そりゃ、だれかて、しんどいのんきらいや。けんど、そこを通らなあかんねんやったら、

しんぼう忍耐せなあかんのとちゃうか。ほら、「患難が忍耐、忍耐が練られた品性、

練られた牝鶏が希望」ちゅうてあるやんか。

八: ああローマ書5章のところやな。あれも、ごっついところやで、なにせ、パウロはん、

「患難さえ喜ぶ」ちゅうてんねんから。わてにはなかなかでけんこっちゃ。

熊: 実はわてもや。心も体も「痛い」のん、きらいや。

あれかいな、イエス様見上げてたら、「痛い」のんや、「しんどい」のんや、

「苦しい」のんも、少しはましになるんかいな。

八: ましになってもらわんと困る。

熊: ところで、イエス様をずーっと見上げてたら首しんどうなるな。どうしたらええねんやろ。

八: あほぅ。「イエス様を見上げて」ちゅうのは何も顔をずっと上げとくこっちゃない。

そんなことしたら、石にけつまづいて、怪我するわ。

「イエス様を見上げる」ちゅうのは、「イエス様から目を離さない」ちゅうことは、

イエス様の十字架での贖いをいつも覚えて感謝するちゅうこっちゃ。

熊: ちゅうことはなにか、感謝・祈り・喜びのあのテサロニケ3セットか。

八: そうなるわな。それに、感謝するときも、先に悔い改めもつけたしてたらええん

とちゃうやろうか。

熊: そんでもって、先週若さんがゆうてはった、聖書を読むちゅうことにも関係してんの

かもなぁ。

八: み言葉には力がある。悔い改めに導いてくれるんとちゃうやろか。

熊: ほなら、あれやな。み言葉・悔い改め・感謝・祈り、喜びと連鎖反応があるんとちゃう

やろうか。

八: そうなったら、うれしいなぁ。聖書よむにも、張りが出て来る。

熊: それともう一つ。イエス様がわてらの伴走者やちゅうこと、わて、めちゃんこ嬉しいねん。

八: わてらは、いわば「めあきめくら」や。そのわてらをしっかりと伴走してくださる。

わてらがあんじょう生きていけるように。

熊: わてらが安心して頼り切って走れるちゅうことは、伴走者であるイエス様と堅い

信頼関係を築くことがたいせつやわな。

八: そのためには、祈りと静まりの時が大切や。イエス様とコミュニケーションとらんと。

熊は、ちゃんと祈りと静まりの時とってるかぁ。

熊: わて、長時間、祈りや静まりの時をとるのが苦手でな、短い時間をこまめにとってる。

八: わて、聞いたことあるんやけど、ある牧師先生、朝3時間も祈りと静まりの時を

もってるって。

熊: あ、わてもそれ聞いたことある。「暇なんか」と思たわ。会社つとめしてたら、

そんなことでけん。

八: いやいや、牧師先生やからできんねんな。わてら庶民には無理。

それを「したらどうでしょう」って言われても、返事に困るわ。

熊: せやから、わてはこまめに、その時間をとってるねん。

八: カトリックの人は、そのこまめの時間とり上手やでぇ。

熊: なんでやねん。

八: カトリックのお人は、「ロザリオの祈り」ちゅうのやってはるねん。

なんでも、数珠みたいなもん、それをロザリオっていうねんけどな、そのロザリオを、

常にポケットに入れておいて、「主の祈り」を1回、「アヴェ・マリアの祈り」を10回、

となえて、唱えつつ、イエス・キリストの生涯を黙想するんやて。

静まりの時をもつんやて。それをどこでもするらしい。

熊: 口に出したらやかましいやろうに。

八: ちゃうでぇ、心の中で唱えてはるらしい。まあ、家の中で、ひとりのときは

声に出すこともあるやろうけどな。同じクリスチャンやけど、知らん事多いわ。

素晴らしい静まりの習慣やね。

熊: ほんまやなぁ。わてらも、いつでもどこでも静まりの時、ちゅうのを見習わなあかんなぁ。

八: イエス様から目を離さない、ちゅうのは、イエス様の十字架の贖いをいつも感謝する、

その静まりの時をもつ、これが大切なんやろうな、な、若さん。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。静まりの時をもつことが、イエス様から目を離さないことのひとつかもしれませんね。パウロがテモテに宛てた手紙のなかで、「イエス・キリスト、つまりダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方、救い主のことを心に留めていなさい」と述べていますが、まったくその通りですね。また、ロザリオの祈りの中でされていたように、イエス・キリストの生涯を黙想することもとても大切なことだと思います。

さて、今日も宣言をします。静まりの時をもち、イエス・キリストを心にとめることを重んじつつ、次のことを宣言しましょう。「イエス様から目を離しません。感謝!」です。

では、3回宣言いたしましょう。

「イエス様から目を離しません。感謝!」、「イエス様から目を離しません。感謝!」、「イエス様から目を離しません。感謝!」

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇25篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マルコの福音書8章34-35節。

「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨てて、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」

黙想いたします。詩篇25篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

聖餐式

賛美⑧:世人の咎のために・御名を掲げて

https://www.youtube.com/watch?v=IbP9qmVCMXs

賛美⑨:主に賛美

https://www.youtube.com/watch?v=v5V7Ay1ogNQ

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、6月2日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記14章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/