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メッセージ主題:『主が私の神である人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.6.9主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年6月9日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:大いなる方に

https://www.youtube.com/watch?v=YiJzyGBkiCE

賛美②:生ける限り主を

https://www.youtube.com/watch?v=AxSQYRC0O5U

賛美③:五つのパンと二匹の魚(6月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=avJYlW6dVvg

賛美④:イエスのように

https://www.youtube.com/watch?v=T5OdpOtp1mI

賛美⑤:苦しみの中で祈る人々に

https://www.youtube.com/watch?v=6AYd_z8pH7M

賛美⑥:御手の中で

https://www.youtube.com/watch?v=I03rng4MKfA

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年6月9日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第15章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。」(2-3)

メッセージ主題:『主が私の神である人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

出エジプト記15章では、モーセの率いるイスラエルの民を追いかけてきたエジプト軍を、主が海の中に葬ったことに対しての、主への賛美。それと、荒野において、苦くて飲めないマラの水を、主が飲めるようにされ、モーセの民が主の命令を守れば、エジプトであったような病気から守ると約束されたことである。そして、エリムという泉とナツメヤシの憩いの土地で宿営します。

主への勝利の賛美のとき、アロンの姉、女預言者ミリアムや他の女性たちも、タンバリンを手にとって、踊りながら歌っています。私は、この光景を想像しますと、今の若いクリスチャンの方々が、踊りながら賛美をしている光景と似ているのではないかと思ってしまうのであります。タンバリンやカスタネットや打楽器をもって、喜び踊り、主の御名をほめたたえることも、実にいいなと思わされるのであります。毎週火曜日にリクエストによる賛美の時をもっていますが、月に1回は、楽器をもって、小躍りして賛美をする時間、もちろんあらかじめリズミカルな曲を選んでパワーポイントで、まあ、私の体力がもてばの話ですが。今月第4週目の火曜日、つまり6月は、25日にちょっと試してみようと思います。

さて、今日の中心聖句ですが、モーセたちが主に向かって歌った歌の歌詞にありますが、歌い始めのところには、「私は歌おう、私の力、私の救い、私の神、私はほめたたえる、私の父の神、私はあがめる」と、集団で歌ってはいますが、「私たち」ではなく、「私」と非常に個人的に歌い上げていることに気づきます。神と民が個人的な関係にある、またそれを強調した形となっています。

ところで、今さらですが、「主」とは誰のことでしょうか。主は主人のことですが、旧約聖書では、「天地の造り主」「唯一、真の神」を意味します。新約聖書では、イエス・キリスト、救い主を意味します。新約時代に生きる私たちが、「イエスは主です」といってバプテスマを受けるとき、「イエスは、私のためにこの世に来られた神であり、神の救いの恵みに私たちを至らせる仲介者、また恵みの契約を保証してくださる方」という意味で、告白します。

旧約時代のモーセの民が「主」と仰ぐ時、それは、唯一の神、天地の創造の神であります。そして、それに加えて、今回のエジプトの支配からの解放が加わり、「救いの神」という神の側面が明らかにされました。

このモーセたちの歌に注目したいと思います。「私は歌おう、私の力、私の救い、私の神、私はほめたたえる、私の父の神、私はあがめる」この主の御名をあがめるという動詞表現をのぞくと、「私の力、私の救い、私の神、私の父の神」となります。これは、モーセの民が主に期待する順番になっています。逆から考えて行きましょう。「父の神」とは400年以上前のヤコブの神、ヨセフの神、しいては、イサクの神、アブラハムの神。神が先祖を今まで守り導いてくださったことの再確認であります。そして、それは「天地創造の神」であることを強調しているのではないでしょうか。次に、「私の神」とは、その先祖の神が変わらずイスラエルを導いてくださっていることを再認識した喜び、エジプトの神々ではなく、イスラエル民族の神、ヨセフの時代から400年もの間、沈黙を守り続けて、「自分たちの神はいない」と意気消沈してしまっていたのですが、この度のエジプトからの脱出で、エジプトの奴隷ではなく、誇り高きイスラエル民族としてのアイデンティティを象徴する神であるということです。また、「私の救い」とは、エジプトの支配から救い出された神、海を分けて、エジプト軍の追っ手を壊滅させた神の業を象徴しています。そして、「私の力」と叫び、今、約束の地を目指して、進むための力を与えてくださいと期待するのであります。ただ、単にエジプトの支配から救われたことを歓喜乱舞していたわけではないのです。

では、私たちの神に対する賛美は、どこまで意味して、また神に期待して賛美しているでしょうか。もちろん、異邦人である私たちの先祖はクリスチャンではなかったかもしれません。しかし、400年前のキリシタンも、神の民であり、信仰的先祖です。彼らキリシタンのイエス・キリストに対する信仰が私たちに直接的間接的に引き継がれているのです。ですから、私たちも「私たちの信仰の先達の神」と告白できるのです。そして、今、「キリストは、私たち一人一人のために生きて働いてくださっています」と告白できる、「私の神」。また、イエス・キリストが罪の呪縛から救い出してくださったと告白できる、「私の救い」。そして、いろいろな意味で未来に立ち向かうための力、勇気、知恵、それを総称しての「私の力」。賛美にしても、祈りにしても、私たちはこの四つの神の要素を思っているでしょうか。「信仰の先達の神」「私の神」「私の救い」「私の力」。

私は、先日、仙台に朝祷会の全国大会に参加してきましたが、仙台にも迫害されていたキリシタンが多くいたことが分かりました。この大阪地区にもたくさんいらっしゃいました。彼らは迫害に耐え、イエス・キリストへの信仰を守り、それだけではなく、周りの人々に福音を伝え、ともに救いにあずかることに熱心でした。じつは私は、家族や親戚のなかで、私の知りうる限り、初穂、つまりキリストを信じた初めての人間です。ですから、正直に言って、「信仰の先達の神」という思いで、賛美や祈りはしていませんでした。たしかに、母教会内では、信仰の先達の方々ばかりでしたから、その方々の信仰は尊敬しておりましたが、それを賛美や祈りには入れていませんでした。私の信仰は、私から始まったという理解でありましたが、それは大きな間違いであったと反省いたします。そして、皆様の信仰もそうなのです。私たちの「神への信仰」は、アダムとエバまでさかのぼるのです。私たちは、アダムとエバから始まる神への信仰、同じ神を信じ続けてきている。このことは本当に大切なことでありますし、感謝なことなのだと思わされました。

さて、私たちは「私の神」と「私の救い」については、恐らく十分黙想し、感謝し、また励まされているのではないでしょうか。私は、今回「私の力」、未来に対する私たちの神への期待が十分になされているかどうかを振り返ってみたいと思います。私の中で、「明日のことは心配するな。」と言うみ言葉に、毎日のように支えられている気がするのです。今を大切にする。明日起こるであろうことにあまり心配しない、悩まない、右往左往しない。明日の準備は、神の力と知恵をいただき、今、精いっぱいさせていただく。精いっぱいの準備をした中で、明日のことはケセラセラ、なるようになる、神様がご計画された通りになる。このようなスタンスで、主にあって、私はいままで取り組んできました。しかし、モーセの民が今後の旅のことを神様に期待して「私の力」と賛美したようには、私は祈っていなかったのではないかと反省させられました。

もちろん、日々の生活において、「主は私の力」であることは、言うまでもないことなのですが、それを未来にむけて祈っていたかと問われると、自信がありません。私が「主は私の力」と宣言するときとは、主によって生かされている時、また生かされたいと思っている時、つまり「主は私の生きる意味」「生きる目的」でもあり、「生きる力」でもあり、「生きる勇気」でもあるのです。

さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。「主は私の力」このことについてお二人はどう思われるかお聞かせくださいますか。

―――――

八: 「主は私の力」か、たしか、詩篇にあったよな。「主は私の力」って。

熊: はい、はい、そうでんな。えーっと、それわやな。詩篇28篇やね。

●「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心は

こおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。主は、彼らの力。主は、その油

注がれた者の、救いのとりで。」7節と8節やね。

八: 詩篇のここは、モーセの民が小躍りしながら歌ってたのを同じやね。「私の力」、「私の盾」

盾は敵からの守り。「私は助けられた」は、「私の救い」。そして念押しで、「彼らの力」

「彼ら」ちゅうのは、油注がれた人、王様や大祭司だけやのうで、神に選ばれた、

神の民、ぜんぶや。つまりわてら、クリスチャンや。「わてらの力」「わてらの救いと

守り」

熊: 今も昔も、神様は、「わての力」「わての守り」「わての救い」「わての拠り所」や。

八: 若さんは、今回は未来のことに強調して「私の力」を解釈していたけど、熊の言うとおり、

今も昔もそれに将来も「神様はわてらの力」やわな。

熊: たしかに、そやわな。神様は永遠のお方やなんやから、イエス様の罪の帳消しの十字架も、

昔の罪も、今の罪も、未来の罪にも有効なんやから。わてらの救いは、つねに有効やし、

わてらの主の力もいつも有効や。

若さんは、神の力が、未来に限ったことやないことも百も承知や。

けんど、未来に対して、神の力を賛美していなかったことを悔い改めたんやと思うで。

八: なるほどなぁ。ほならわても白状せなあかんな。

熊: 何を白状するねんな。

八: 「主はわての力」ちゅうところなんやけどな。「主の力」を信じてないんやないんやけど、

ときどき、主の力を軽うみて、自分の力で動いてしまうことがある。

熊: そんで、そういう時は、失敗するんやろ。

八: いや、そうでもないんや。せやから、また主に拠り頼まんと、勝手に動いてしまう。

自分の力に過信してしまう。そんで、そのうち取り返しのつかへん失敗を、、、

熊: そんな失敗をしたんか。

八: いや、まだしてへん、と思うでぇ。神様の憐みによって、まだ大きな失敗はしてへん。

けんど、それではあかんと思いつつ、またやってしまうねん。

熊: それは、綱渡りやな。神様の力をお借りすることが一番やと思てるのに、でけへん。

わてにも、そういうことがあるわ。いや、わてらだけやない、みんなあるんやない

やろうか。主に力をお借りすると言いながら、自分の力でやってしまう。

主に知恵をください、ちゅうてんのに、自分の思いや、知恵で動いてしまう。

八: そういうときは、どういうようにしたらええんやろうか。

熊: わては、主に知恵と力を貸してくださいってお願いして、

八: けんど、自分の力でやってしまうんやろ。

熊: そうならへんように、わて、コーヒーを飲むたびに、「わての力ではなくて、

主の力がそそがれますように」と祈ってるねん。

八: コーヒーを飲むたびにかいな。

熊: そうや。仕事や何かにやっきになってるときには、「主の力がそそがれますように」と

言う余裕があれへん。心に余裕ができるときちゅうのは、コーヒー飲んでるような時や。

八: なるほどなぁ。それはええこと聞いた。わてもやってみよ。

若さん、熊からええこと聞いたさかい、コーヒーブレイクや!

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。コーヒーを飲むたびに、「自分の力でなく、主の力が注がれますように」ですか。いいアイデアですね。わたしもやってみましょう。「自分の力と主の力」なかなか区別がつきにくいでしょうね。主に完全により頼む、より頼もうとする時、「主は私の力」であると宣言できるのかもしれませんね。

さて、今日も宣言をします。主に信頼し、主の力がわたしたちに注がれますようにと祈りつつ、「主は私の力。感謝!」と宣言しましょう。

では、3回宣言いたしましょう。

「主は私の力。感謝!」、「主は私の力。感謝!」、「主は私の力。感謝!」

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇28篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書8章12節。

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

黙想いたします。詩篇28篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:主がそばにいるから

https://www.youtube.com/watch?v=ikdWPBdaqd0

賛美⑨:あなたがすべて

https://www.youtube.com/watch?v=B5EfsD13TIc

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、6月16日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記16章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/