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メッセージ主題:『安息を大切にする人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.6.16主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年6月16日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:神の国と神の義

https://www.youtube.com/watch?v=PmOZutYbt4c

賛美②:土の器

https://www.youtube.com/watch?v=THYEz10LphM

賛美③:五つのパンと二匹の魚(6月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=avJYlW6dVvg

賛美④:生ける水の川

https://www.youtube.com/watch?v=-duqM-VHOEA

賛美⑤:父の涙

https://www.youtube.com/watch?v=UMVwBJo5Kzs

賛美⑥:主のみ言葉待ち望む

https://www.youtube.com/watch?v=eMiTgz-SzBY

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年6月9日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第16章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしの教えに従って歩むかどうかを試みるためである。六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」(4-5)

メッセージ主題:『安息を大切にする人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

出エジプト記16章では、皆さんよくご存じの「日々の糧」である、天からの不思議な食べ物、「マナ」が、神様によって与えられるところです。マナは31節で説明がありますように、「コエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れた薄焼きのパンのようであった」と記述がありますが、この「薄焼きのパン」とは調理をしたときのものかもしれません。そもそもコエンドロとはどんな植物でしょうか。ネットで調べますと、最近私たちも目にするようになったパクチーのような植物でありました。種は、直系3ミリ程度の球体状です。マナがこのようなものであれば、白いビーズのようなイメージのものなのかもしれません、が、14節では、「その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。」とありますように、「地に降りた霜」というイメージでは、すぐに溶けてなくなりそうな感じです。白いビーズのようなもので、表面は柔らかいのかもしれません。

まあ、形状はともかくとして、そのマナは、二日と置くことができない、置くと「虫がわいて、臭くなり」食べれなくなる。ですから、毎朝、地面に落ちているマナを一日分ずつ集めないといけない。私は、この光景がなにか落穂ひろいに似ているなと思わされるのであります。麦の刈り入れのときに落ちた麦の穂を、収入のないやもめたちが、落穂を一粒ずつ、腰をかがめて拾い上げていく、忍耐のいる、かなりの重労働であります。それと同じことが、このマナを集める時に行われる、しかも、二日分とっても意味がない。腐って食べられなくなるのですから。毎朝集めないといけない。しかし、二日分とっても腐らない日が、六日目であります。七日目の安息日には仕事をしてはいけませんので、その前の六日目に二日分をとっても、マナは腐りません。神は理にかなったことをなさいます。神が安息日、民の休息の日、体だけではなく心も霊的にも休息を与え、次の一週間の活力を養うというものです。腰をかがめて、落穂ひろい状態のマナ集めの重労働から、7日目に解放され、日ごろよりも、もっと主に感謝をささげる時間を作る、主との静まっての交わりの時間を共有する。このことを主は大切な時間として私たちに定めておられるのです。

神は、この安息日を聖なるものと位置付けました。創世記2章3節●「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。」安息日を聖なるものと位置付けたとは、安息日に私たちは何をすべきで、何をすべきでないということでしょうか。

パリサイ人たちは、イエス様の弟子たちが安息日に麦畑の穂を摘んで食べたことを非難しました。またイエス様が安息日に病人をいやされたことをとがめました。パリサイ人たちは「仕事をしてはならない」という律法をたてにイエス様を陥れようとしました。この陥れるという行為は、安息日にしてよいことでしょうか。もちろん、いけないことです。人を陥れたり、卑しめたりすることは、神は喜ばれません。では、神に喜ばれることとはなんでしょうか。それは、私の信仰の指針となっています、テサロニケ人への第一の手紙5章16節~18節、●「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」 そして、神に喜ばれることとは、神に礼拝を捧げることでもあり、安息日に憐れみを施すことでもあります。いえ、憐れみをほどこすことは、なにも安息日に限ったことではありません。そうなれば、日常的にしている良い行ないに加えて、私たちのすべきこと、守るべきことは、神に礼拝を捧げることです。だからと言って、神に礼拝を捧げるだけでよいというものでもありません。安息日には、日ごろ、シャカリキになって生活に追われていたとしても、少なくとも、安息日には、仕事の手を止め、主の目に喜ばしいことをするということです。

イエス・キリストは、安息日に麦の穂をつまんでたべた弟子たちを非難したパリサイ人に対して、「ここに宮より大いなるものがあります」(マタイ12:6)と述べ、「人の子は安息日の主です」と告白しています。つまり、イエス・キリストは、御自身がユダヤ人が礼拝している神であり、安息日に礼拝すべきは人の子、つまりイエス・キリストであると宣言しているのです。

私たちの安息日、つまり日曜日にイエス様を礼拝することは、何にもまして神の目に喜ばしいこととして映るのです。

では、日曜日にイエス様を礼拝しただけで、日曜日が聖となるのでしょうか。先ほどの創世記では、「第七日を聖なるものとする」とありましたが、礼拝の時間だけで、安息日は聖とされているのでしょうか。礼拝後、「やれやれ堅苦しい礼拝は終わった」として、遊びに出かけるのはいいことなのでしょうか。また、家でゆっくりとテレビや映画三昧、YouTubeやゲーム三昧も許されることなのでしょうか。このように問いかけをしますと、礼拝後に遊びにでかけたり、家で楽しみ三昧があたかも悪いと言っているように聞こえるかもしれませんが、私は、そうでもないんじゃないかと思っています。こういう風に言いますと、恐らく昭和時代の牧師先生からは、けしからんとにらまれるんじゃないかと思いますが、牧師先生でも礼拝が終わると、ジャケットやガウンを脱ぎ、ネクタイをはずし、テレビやラジオの前でリラックスしておられることもあるのではないでしょうか。礼拝だけ守っていればいいという考えではありませんが、「安息日を聖なるものとする」という神様のお申しつけは、なにも「安息日を24時間、主の前に佇(たたず)みなさい」というのではなく、日ごろよりも、主と交わる時間、主に感謝する機会、主の臨在の気づきをもつということではないかと、私は考えています。日常生活において、仕事や用事をしていますと、それに集中してしまい、神様との交わりが少なくなってしまうかもしれません。「いえいえ、仕事や用事をしていても、常に神様に感謝しています」とおっしゃる御仁もいらっしゃるでしょう。それは、すごくすばらしいことです。が、少なくても私はそうでない時の方が多いのです。先週、八さん熊さんの会話の中で、「何かに集中しているときに神様を感じることがなかなかできないが、コーヒーブレイクの時に神様に感謝し、交わりの時間をもつんだ」というようなことを話されていました。私は、安息日には、神様がこの一週間どう導いて来られたのか、どう私たちを守ってくださったのかを、振り返る時間を持つことも大切ではないかと思っています。もちろん一人で振り返ることもよいのですが、できれば、同じ信仰をもつだれかと、「神様からの恵み」の分かち合いをすることも、とても有益なことではないでしょうか。人の、神様の導きや守りの話に耳を傾けたり、また自分がその証しをしたりすることによって、生きて働いてくださっておられる神様により感謝できるのではないでしょうか。特に、主の証しをすることは、自分自身の信仰の立ち位置を確認したり、神様の御業を再確認し、感謝することになるでしょう。そのことを次の聖句が如実に表しているのでしょう。マタイの福音書18章20節●「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」このみ言葉の前、19節では、●「あなたがたのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」とあり、その流れでの、20節「二人・三人」となりますから、「集まり」は「祈り」ともとらえられます。しかし、この「集まり」は祈りだけではなく、主にある交わりの中にイエス様がいらっしゃると考えています。

ですから、「安息日」には、「安息日を聖とする」という意味では、同じ信仰をもつ仲間や家族で過ごすことが望ましいのかもしれません。しかし、クリスチャン人口1パーセント未満の日本では、それもなかなか難しいでしょう。ですから、一人一人が、「安息日」には、主と交わる時間をより多く持つ、感謝する機会、また感謝する気づきをより与えられることが大切なのではないでしょうか。日本は、全体的に日曜日にいろんな行事が多すぎる、日曜日だけがみんなのお休みだからという理由ですが、その日本人的マインドが教会にも浸透しています。教会行事も日曜日にされることも多い。日曜日だとクリスチャンの出席者が多いから。ほんとうにそれで、神様のおっしゃる安息日を守っていることになるのでしょうか。礼拝が終われば、さっさと帰って、それぞれでそれぞれのやり方で主を楽しめばよいと私は思っています。牧師先生もはやく解放されたいのではないでしょうか。教会行事は、だれかが奉仕しないと成り立ちません。日曜日に教会行事をいっぱい詰めてしまえば、奉仕ばかりで、リラックスなんてできるはずがありません。私なんかは、自戒をこめて、安息日ぐらい信徒の方々にはもっとゆっくりさせてあげましょうよと訴えたいのであります。教会行事の多さが、信仰の強さを表す指標のようになってしまっているのではないでしょうか。一人一人が詩篇46篇10節●「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(口語訳)の聖句を中心に、安息日を過ごせる環境を教会が提示する必要がある、牧師が、牧師自身も含めて、そのように信徒に「静まって神を知り、神をあがめる」時間をもつように励ます必要があるのではないかと、今回のメッセージを準備している中で特に思わされました。まことに反省すべきは私であります。

さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。「安息日」このことについてお二人はどう思われますか。

―――――

八: 若さん、「安息日、安息日」って言うてはったけど、「安息日」はほとんどの教会では

日曜日やわな、まあ、土曜日のところもあるらしいけど。

熊: けんど、「日曜日」が休みの人はええでぇ。この世の中、日曜日に働かなあかん人も

ぎょうさんいる。特に飲食業やショッピング街で働く人はそうやわな。

八: いやいや、それだけやないでぇ。運送業の人も、交通に関係する人も、それに警察や

消防や病院の人たちもそうや。まだあるでぇ、お弁当工場ではたらく外国人労働者も

そうらしい。もちろん、お休みは、週のどこかで取ってはるやろうけどな。

熊: インターネットで世界がつながってしもて、地方も外国も、みんな一緒くたになって、

忙しなってしもた。

八: 誰かが言うてたな、「忙しい」ちゅう感じは、心が亡くなった死んだ状態を漢字に

現したんやて。

熊: ほんまや、言われてみればそうやな。心が死んだ状態、神様を感じない状態。

まっこと「忙しさ」はこわいなぁ。せやから、わてはコーヒーブレイクに神様と

お話しするんや。

八: 先週、言うてたやっちゃな。そんで、若さん、反省を込めて、言うてはったけど、

「安息日、つまり日曜日に、教会行事を入れんと、ゆっくりしたらええねん」って。

熊: まあ、若さん、あんまり教会行事入れるほど、礼拝以外に日曜日、

なんもしてはれへんけどなぁ。

八: わてらにとっては嬉しい話しや。実は、若さんな、自分の信徒時代の反省でもあるんや。

熊: あ、それ聞いたことがある。日曜日は、朝から晩まで教会に入りびたりやったって、

言うてはった。日曜日は神様に献げる日なんや、日曜日は聖とするんや、ちゅうて。

その熱心が自分の信徒としてのプライドであり、信仰の現われやと思てはったらしい。

八: しかし、その間違った熱心さで、家族が犠牲になってたと反省したんやな。

熊: その反省も遅すぎた。今は、あんだけ嫌がってた牧師となって、信徒の人には負担を

あまりかけたくないと思てはるらしいけど、まだ自分自身は忙しいままやからなぁ。

八: 仕事もしい、牧師もしい、それになんかいろんな役も引き受けてるやろ。忙しいはずや。

けんど、最近、没頭する趣味ができたらしいやないか。

熊: 福音落語かいな。

八: いや、落語は前からやってはるやろ、ここだけの話、ぜんぜん上達せぇへんけどな。

自分では「下手でええねん。まわりの演者をひきたたせる役目なんや」ちゅうて

強がりゆうてるけどな。まあけんど落語やのうて、ギターの修理やがな。

熊: ああ、最近、熱心にやってはるなぁ。ボロを仕入れて、修理して、高う売る。

八: あほぅ! 高うは売ってはれへんでぇ。なんせ、工賃、時間給になおしたら300円ぐらい

にしかならんゆうてはったから。

熊: なんや、そんなんやったら儲かれへんがな。

八: 若さん、はなから儲けようなんて思てはれへんがな。ボロボロのギター、だれも、

そのままやったら見向きもせんようなギターを仕入れて、それをできるだけきれいな

音色が出るまでに、修復しはんねん。そんで、ピカピカに磨いて、新品の弦をはってな。

前に、若さん言うてはった。「ボロボロのギターを一生懸命修復してるとな、

神様に感謝するんやて。」

熊: どういうこっちゃ、神様に感謝やて。

八: 「わてらも欠けのあるボロボロの器や。その欠けを根気よく直して下さるのが神様や。

なかなか、治らん割れや欠けもあるけど、時間かかるけど、味のある器になるまで

手入れしてくださる。ギターを修理調整してると、神様のありがたみと根気が

ようわかるわ。」って。

「きれいな音色をかなでるギターに仕上がった時、ものごっつい、嬉しいらしい。

人の手に渡すんやのうて、自分のもんにしたいぐらいらしい。」

熊: まあ、人の手に渡れへんかったら、ギターで部屋がうめつくされて大変なことになるしな。

八: まあ、そのぐらい愛情こめてるちゅうこっちゃ。それに出荷するとき、クリスチャンの

トラクトを挟んで、包んでるんやて。お金もらって、伝道してるちゅうこっちゃな。

熊: それええなぇ。お金もらって、トラクトで種まいて、相手も喜んでくれる。

いっっきょ三徳やな。けんど、それと、安息日とどう関係してるんや。

八: 若さん、牧師やから安息日にメッセージせなあかん。毎回のメッセージを導くのは

神様やけど、その導きは苦しいときも多いけど、それも楽しみや。

だから、毎日に安息日のような時間、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と

いう時間があるのと同じや、言うてはる。それに加えて、「ギターを修復している時は、

また違う角度で、神様とお話ししている」ちゅうて、安息時間が増えたって喜んではるねん。

熊: なるほどなぁ。あんだけ嫌がってた牧師の仕事やけど、いまでは感謝してるんやな。

八: それに、神様に、ギター修復のチャンスを与えられたこと、ものごっつい感謝してはるわ。

熊: 若さんには、安息日はないかもしれへんけど、安息時間が増えたのはなによりや。

八: わてら信徒も安息日にこだわらんと、安息時間にこだわる方が、今の目まぐるしい世の中、

生きやすいのかもしれへんなぁ。若さん、今日はこのへんで。

ギター修復、がんばってや!おきばりやす!

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。今の世の中、人によっては、日曜日だけが安息日ではないのでしょうね。安息日に礼拝を捧げることができれば、一番良いのでしょうが、できなければ、インターネットで礼拝の時間をもつということも大事でしょう。また礼拝だけが安息日ではありません。八さん熊さんがいうように、日常生活において、どれだけ安息時間をもつようにするのかも、信仰生活において大切なことなのでしょうね。

さて、今日も宣言をします。モーセ時代のマナのように主は日々私たちを守り養ってくださることに感謝しつつ、安息日や安息時間の恵みを覚えつつ、「主は私の安息。感謝!」と宣言しましょう。

では、3回宣言いたしましょう。

「主は私の安息。感謝!」、「主は私の安息。感謝!」、「主は私の安息。感謝!」

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇81篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書10章14節。

「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」

黙想いたします。詩篇81篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:満たしてくださる方

https://www.youtube.com/watch?v=zG8267wwtAc

賛美⑨:栄光ある主の御名

https://www.youtube.com/watch?v=pL3H7KXoMsw

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、6月23日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記17章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/