· 

メッセージ主題:『主が私の旗と信じる人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.6.23主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年6月23日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:鹿のように

https://www.youtube.com/watch?v=cU-r7dYIj58

賛美②:我が喜びの理由

https://www.youtube.com/watch?v=HYt6r1TywiE

賛美③:五つのパンと二匹の魚(6月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=avJYlW6dVvg

賛美④:イエスが愛したように

https://www.youtube.com/watch?v=q1CIhWWdx9g

賛美⑤:ただ一つの願い

https://www.youtube.com/watch?v=UHObMeDWqHg

賛美⑥:主は我らの太陽

https://www.youtube.com/watch?v=eMiTgz-SzBY

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年6月23日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第17

章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、そして言った。『主の御座の上にある手。主は世々にわたりアマレクと戦われる。」(15-16)

メッセージ主題:『主が私の旗と信じる人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

出エジプト記17章は、二つのパート「メリバの岩」と「アマレクとの戦い」とから成っています。「メリバの岩」では、イスラエルの民に水がなくなり、モーセに対して不満をぶちまけ、「なんとかしてくれ」と迫ります。主はモーセに知恵を与え、ホレブの岩を打ち、そこから水が流れ出ることを伝え、その通りになります。ここでは、イスラエルの民は、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と試みてしました。また、「アマレクとの戦い」では、宿敵アマレクとヨシュア軍が戦いますが、モーセが両手を上げているときは、ヨシュア軍が優勢に、手を下げると劣勢になり、ついに、モーセの両手をアロンとフルが日没まで支え、勝利に導きます。そして、感謝の祭壇を築き、アドナイ・ニシ「主は私の旗」「主が勝利に導く」と呼びます。

「メリバの岩」で民が神を試み、神は不思議を通して神の力を示し、「アマレクとの戦い」では、神を信じれば、神は必ず勝利に導くことを明らかにしました。では、私たちは、何もしないで神により頼めば、神は私たちを勝利に導くのでしょうか。ヨシュアは全力を尽くして戦っていました。しかし、それだけでは十分ではありません。モーセは両手をあげ、とりなしの祈りをヨシュアが戦っている最終ずっとささげていました。ここに勝利の秘訣があります。私たちは私たちの責任としてベストを尽くす。そして自らも祈り、また祈りの友からもとりなしの祈りをしてもらって、主が勝利に導いて下さることを願う。神は、私たちが自らの力で勝利を勝ち取って、自らを誇らないように、私たちを導いてくださいます。

話を少し変えます。

英語で、I’m proud of myself. という表現があります。訳すと「私は私自身が誇らしい」「私は自分自身を誇りに思う」「よくやった、と自分をほめて上げたい」という感じでしょうか。この言葉は、よくアスリートの方々、アスリートに限ったことではありませんが、そのような人々が、厳しい訓練や練習や節制の末、勝利を勝ち取った時などに使われます。しかし、そこに神への称賛や感謝はありません。仕方がないでしょうね、その人たちは神をしらないのでしょうから。また神が隠れた所で、彼らを勝利に導いている、またそれが神のご計画であるとは、微塵も思わないでしょう。神のご計画は壮大で、私たちには計り知れないものです。例えば、どうして戦争が起こり続いているのか、どうして災害が起きて、多くの人が苦しまないといけないのか。多くの人が祈りを積んでいますが、今だ解決に至らないことも多い。私たちには分からないことばかりです。では、私たちは祈りをやめて、諦めるべきでしょうか。いえ、けっしてそうであってはなりません。私たちは神を試してはいけません。モーセの民が水をめぐって争い、モーセに不平をいい、「神なんかいないのではないか、いるんだったら何とかしてください」と神の存在と神の力を試してはいけないのです。神は私たちの計画の中に閉じ込めることはできません。逆に、私たちが神のご計画の中に、私たち自身を置くべきなのです。そして、それは簡単なことではありません。しかし、神の導きを願い、神の導きに従うしかないのです。たとえ、モーセが、両手を支えてもらって、とりなしの祈りをしたとしても、神のご計画の中にいるものでなければ、あのヨシュアのアマレクに対する戦いに勝利はなかったでしょう。

私たちは、私たちの人生において、イニシアチブ・主導権は私たちにあると考えがちです。ですから「人生を切り開く」という言葉がある通りです。もちろん、私たちには「人生を切り開く」権利と義務があります。そして、人生の岐路に立った時の選択は自由です。しかし、それが必ずしも勝利に導くとは限りません。しかし、神は、神を信じ、神により頼み、神に聞き従う者に、必ず勝利に導いてくださいます。その勝利は、人間的な成功、つまり名声や富や仕事の充実などではありません。神の平安と後の永遠のいのちです。私たちが、イエス・キリストを信じた時点で、心に聖霊様がおくだりくださり、神に対して私たちが罪なき者ととりなしてくださり、私たちは永遠のいのちの約束を得ます。しかし、その約束が効力を発するのは、私たちがこの世での生を全うした後です。それだけでは本当の意味で勝利者ではありません。勝利者は、この世でも勝利者なのです。つまり、この世では、神の平安の中に生きることが勝利者の特権です。そして、神の平安の中には、喜びと感謝の心ももれなく付いてきます。もちろん、私たちは欠けの多い不安定な人間です。ですから、時折、勝利も揺らぐかもしれませんが、勝利者たる特権は揺らがないのです。

私は神の平安の中にいることこそが、この世での勝利だと思っています。そして、先ほども申しましたが、神の平安には喜びと感謝がついて来ます。私は、神の平安の中、つまり神に憩うこと、それを最上の喜びとしています。詩篇には神に憩うテーマが多く示されていますが、特に詩篇の84篇は、その意味において秀逸です。あとで、黙想の時にお読みしたいと思います。

さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。「勝利者」このことについてお二人はどう思われますか。

―――――

八: 「勝利者」ねぇ、小坂忠さんの歌にあったなぁ、「勝利者」っていうのが。

熊: ああ、あの歌なぁ。勝利者やのに、ちょっと悲しい感じのする歌やねん。

八: 勝利者は、なんか「ワォ―」って、雄叫びを発している感じやけど、本当は

あの小坂忠さんの歌詞にあるような勝利者が、本物の勝利者なんかも知れんな。

熊: 忠さんの歌詞なぁ。どれどれ、、、、あのリフレインがええなぁ。

勝利者はいつでも、苦しみ悩みながら、それでも前に向かう。

勝利者いつもでも、傷つき悩みながら、それでも前に向かう。

八: 本当の勝利者は、どんなしんどい事、落ち込むようなことがあっても、

それでも前に向かう。つまり、神様を見上げるちゅうこっちゃ。

神様の平安を求める、神様に憩う、神様に安らぐ、ちゅうこっちゃろうなあ。

熊: 雄叫びをあげて、喜び踊る、ことがあってもええけど、

その時って、本当は落とし穴に落ち込む危険があるちゅうこっちゃろうな。

八: 「勝って兜の緒を締めよ」って、よう言うたもんや。

熊: ダビデが、神の聖櫃がもどってきたときに、王の威厳なんか関係なく、

力の限り跳ね回ったやんか。

八: ああ、第二サムエル記6章のことろやな。ちょっと読んでみるでぇ。14節からでええな。

「ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまもっていた。

ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上げた。

主の箱がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろして

いた。彼女はダビデ王が主の前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼を

蔑んだ。」

熊: 娘は、厳しいなぁ。いつの世もいっしょや。

八: まあまあ、それだけ、ダビデは王様やのに、一目を気にせんと、うれしさのあまり、

踊り狂ってたちゅうこっちゃろうな。主にあって、喜ぶ、喜び踊る。あれも勝利者の

姿なんやろな。

肩書とか、貧乏人とか金持ちとか関係なく、主を喜ぶ。

熊: 忠さんの勝利者の姿も、ダビデのような勝利者の姿も、どっちも勝利者の一面やろな。

じゃあ、八の主にあっての勝利者のイメージはどうや。

八: わての勝利者のイメージは、聖書を読んでて、そこにお宝、きらっと光るものを見つけて、

嬉しくなっている姿かな。

熊: そやなぁ。前に若さん言うてはったもんな。聖書を読むときは、宝探しのように

読むとええでぇって。聖書は宝の山やからな。

八: 熊は、どうなんや。熊の勝利者のイメージは、なんや。

熊: わてなぁ、最近、「主よ、わても用いてください」ちゅうて祈ってるねん。

わての中での勝利者は、神様に用いられる人間、やねん。

神様はどんなふうに、わてを用いてくださるのかは分からん。

大きなことをすることだけが、用いられることとちゃう。

まあ、大きなことなんてでけへんけどな。

八: そらそうやわな。聖書の中に名前を残している人たちもいるけど、名前を残してへん

人たちの方がはるかに多い。その人たちも神様に用いられているから、名無しの中継ぎ

の役目をしてはる。信仰が継承されてるから、信仰が継承されてなかっても子孫の糸が

つながっているから、わてらがおる。

熊: 主のための働きとして、大きなことをするお方がおる。わてらは「主が大いに福福されて

いる」と言って、その人を尊敬もする。けんど、主の目からみたら、用い方はちがう

けど、おんなじなんとちゃうかと思わされてんねん。天の御国に招かれたら、

おんなじなんとちゃうやろか。

せやから、わては、主に用いられることが、勝利者やと思てるねん。

八: なるほどなぁ。大きな働きも、小さな働きも、イエス・キリストを頭とする教会に

とっては、なくてはならない存在やちゅうこっちゃな。勝利者は主がもちいてくださる

人のことかぁ。

なんかええなぁ。今日の宣言にしたらええな、な、若さん。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。主が用いてくださる方が勝利者ですか、いままで考えたことがなかった角度ですね。熊さん、感謝します。主が用いてくださるためには、主の御声に声を傾け、聞き従う心をもつことが大切ですね。「名無しの中継ぎ」も主に用いられているのですから、胸をはって「名無しの中継ぎ」の役割をはたしたいものです。

さて、今日も宣言をします。八さんのおっしゃるとおり、主が私たちを用いてくださることを願い求めつつ、「主は私の勝利。感謝!」と宣言したいと思います。

では、3回宣言いたしましょう。

「主は私の勝利。感謝!」、「主は私の勝利。感謝!」、「主は私の勝利。感謝!」

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇84篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書25章21節。

「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」

黙想いたします。詩篇84篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:きぼう

https://www.youtube.com/watch?v=WS6FjIKIMuY

賛美⑨:死からいのちへ

https://www.youtube.com/watch?v=IdS_jIcpsf0

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、6月30日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記18章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/