ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2024.7.14主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)
●午後5時開会:ただいまより、2024年7月14日主日礼拝式を始めます。
●祈り
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:悲しみ尽きざる+その愛
https://www.youtube.com/watch?v=_2tT4dlSvHk
賛美②:ここに(7月の曲1)
https://www.youtube.com/watch?v=n6kKRT2IdqA&list=PLYDQwRGBhtBtee1k2YNoebUKZMuLMgqpI
賛美③:祈ります求めます(7月の曲2)
https://www.youtube.com/watch?v=GRFbvWaGn5M
賛美④:この日は
https://www.youtube.com/watch?v=zQ2SN7GmbzI
賛美⑤:君は愛されるため生まれた
https://www.youtube.com/watch?v=9EKO2vkM8v8
賛美⑥:主をたたえよ
https://www.youtube.com/watch?v=3lyTjquOnTA
【YOUTUBE配信開始】
2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。
年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。
●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)
するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。
人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、
パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。
また、二匹の魚も皆に分けられた。
彼らはみな、食べて満腹した。
そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。
パンを食べたのは、男が五千人であった。
●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)
イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
●2024年7月14日 主日礼拝メッセージ
「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。
そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。
(会衆)
罪の奴隷からの解放
聖別された個となるための務め
神の臨在による神との親しい交わり
●聖書拝読:出エジプト記第20章(新改訳聖書2017)
朗読: 若竹
中心聖句:
「わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」(24b)
メッセージ主題:『主が臨み祝福される人生』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
出エジプト記20章では、シナイ山にて神は、神に対する戒めと人に対する戒めとして十戒をモーセに言い渡しました。そして、主は、再度、十戒の第一戒、第二戒をモーセに告げます。他の神々の銀や金の偶像を造ってはいけないと。そして、土の祭壇の上でいけにえをささげ、祭壇に階段で登ってはいけない。祭壇に下半身をあらわにしてはいけないと忠告しました。それだけ、神の御座は神聖なものであるということでしょう。神の神聖さは、神への畏怖の念をいだかせます。しかし、神は民に過度の恐怖をもつのではなく、神への適切な恐れによって、民が罪から遠ざかって生活をすることを勧めています。それが、20節の言葉です。●「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」
今日の中心聖句●「わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」(24b)は、祭壇の規定の間に挿入されているものですから、「わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所」というのは、祭壇を意味していると考えられます。しかし、新約時代の私たちには、旧約聖書時代の祭壇という場所はありません。強いて言うなら、御子イエス・キリストがご自身をいけにえとしてささげられた、贖いの象徴、十字架です。ヘブル人への手紙の13章10節には、●「私たちには一つの祭壇があります。」と告げます。これは、十字架のことで、後の12節13節では、●「それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」と、キリストがユダヤ人から迫害され、門の外、つまりユダヤ人社会の外で、十字架にかけられたのですから、当時のキリスト者も当時のユダヤ人からの迫害を覚悟し、ユダヤ教の律法からも逃れ、神のみもとに近づこうではありませんかと、ベブル書の著者は勧めるのであります。つまり、この今日の中心聖句は次のように読み替えることもできます。◎「主の十字架の贖いをおぼえ、主の御名をあがめる時、主はわたしたちに臨み、わたしたちを祝福する。」私たちにとって祭壇は、場所ではなく時、または時間の感覚も含めた「場」ということになります。
現代における実際的な祭壇の場とは、毎日の神との交わりの時(ディボーション)とも言えるでしょう。いつでもどこでも、主を意識して祈りや賛美をささげる場こそ祭壇なのであります。また、礼拝をささげる教会も祭壇とも言えるでしょう。しかし、週に1回の教会礼拝だけが祭壇の場ではないことを注意しておきたいと思います。
ここで言う教会は、信徒の集まりであって、建物である教会堂ではありません。私たちがよく耳にします「主の宮」も建物ではありません。使徒の働き7章48節~50節には、次のようにあります。●「しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。―-主のことば――わたしの安息の場が、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったものではないか。』」確かに、モーセの時代には、荒野にあかしの幕屋がありました。そしてソロモンが神のための家、神殿を建てました。しかし、イエス様の十字架の贖いによって、神殿の中にある分厚いカーテンが裂かれ、聖所にあった境界線が崩れ、神様との対話が直接かつ自由に行なわれるようになりました。では、主の宮とは、いったい具体的には何なんでしょうか。パウロは第1コリント6章に次のように記しております。
15節●「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。」
19節-20節「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい。」
主の宮、聖霊の宮は、私たちのからだなのです。私たちがイエス・キリストを救い主として信じ受け入れると聖霊が私たちの心に宿ります。そして、私たちのからだは、聖霊が宿ることで主の宮となります。「主の宮」のイメージは、私たちの身体と神の霊的なつながりがあり、かつ、神がその主導権をにぎっていらっしゃいます。そう、キリストが代価を払って買い取って下さったのです。では、どうしてキリストはご自身のいのちと引き換えに、私たちを買い取られたのでしょうか。それは、神がまず私たちを愛されたからです。皆さんよくご存じのヨハネ福音書3章16節●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」まず、神が私たちに愛を示され、私たちに永遠のいのちを持つために、イエス・キリストという救いの手を差し伸べられたのであります。主の宮は、神からの一方的な恵みであります。全員がその恵みを受ける権利はありますが、イエス・キリストを信じるという応答をすることによってのみ、その永遠のいのちの契約が成立するのです。
聖霊がお住まいくださる私たちの身体である主の宮では、主の御名をあがめ賛美するのでありますから、主が臨在し、主の祝福があることになります。
では、どのような時に、主の祝福が得られないのでしょうか。第一コリント6章にもどりますと、16節●「遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。」「遊女」を拡大解釈しますと、「悪魔、悪霊」ともとれるかもしれません。悪魔や悪霊の誘惑に陥る、または彼らの罠にかかってしまう。それは、つまりは、淫らな行いであり、神から遠ざかる行いであり、その行ないは自分の身体に対して罪を犯しているのです。聖霊の宮である私たちのからだは、もはや私たちのものではなく、主のものなのであることを自覚しましょう。●「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」(19節20節a)
さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。「主の宮」のことについてお二人はどう思われますか。
―――――
八: 「主の宮」ってなんか恐ろしくないか、熊。
熊: なんやねん、その恐ろしいって?
八: だって、そやろ。主の宮って、ほら、祭司しか入られへんかった。
それに入る前に行水なんかして。
熊: まあ、主の宮って、聖い場所やからなぁ。
八: ほら、どこやったっけ、聖い箱、聖櫃を担当じゃない人がふれて死んでしもたこと
あったやん。
熊: それって、ウザのことやなぁ。サムエル記6章のところ。
八: それそれ。牛が聖櫃をひっくり返しそうになって、聖櫃を守るために手を伸ばして、
ひっくり返るのを防いだ。けんど、主の怒りがウザに向かって燃え上がって、
ウザ即死や。
熊: ウザ~。
八: それ、絶対言う思たわ。
熊: ばればれやったか。まあな、けんど、なんでウザが死んだと思う。
八: そら、聖い箱に触れたからやろ。触れたら死ぬって言われてたんやから。
熊: そうや。ウザが死んだのは、触れたからや。
八: けんど、箱が牛から落ちそうになったから、それを防ぐために箱に触れた。
ウザはなんも悪くないんとちゃうか?
熊: そうかもしれん。いや、その通りやろ。けんど、ウザの心の片隅に、恐れに対するダレ
ちゅうか、「箱に触れても死なんのとちゃうか」という甘さ、恐れのなさがあったんと
ちゃうやろか。それは、いわば傲慢なんかも知れんでぇ。
八: そうか、「恐れの甘さ」なぁ、「恐れのダレ」「傲慢」なぁ。やっぱり、それや、それ!
熊: なんやそれって。
八: 「恐れの甘さ」や。わてなぁ、正直ゆうて、わてが甘甘やからなぁ。わてがウザやったら、
何べんも死んでんのとちゃうやろか。って思うんや。
熊: なんや、それやったら、「主の宮」って思て、嬉しないんか。わては嬉しいでぇ。
だってそやろ。四六時中、聖霊様がいっしょにおってくれて、守ったり導いたりして
くれはんねんから。
八: そら、分かってんねんで。けんど、こんな甘々で、「主の宮」が務まるんかなぁって。
熊: あほやなぁ、八。神様わてらに完璧なんてもとめてへんがな。恐れおののきすぎて、
萎縮してしもたら、何にもならへん。聖霊様がわてらを自由にしてくれはった。、、、
やろ?
八: やな?
熊: やろ! 詩篇みてみぃなぁ。神様にぶつぶつ、よう言うてはるやん。わてらは、
生きてるねん。喜怒哀楽があるねん。それもできそこないのわてらは、なおさらや。
聖霊様な、わてらの心の中、住んではるやんか。わてらのこと、全部お見通しなんや。
せやから、そんなに心配せんで、ええねん。、、、、と、わては思うんや。
八: そっかぁ。
熊: 「主の宮」は、聖さも問われるけど、主にあって自由ちゅうか、もっと喜び
表わさなあかん。と。わては、思てるし、そう信じてる。
八: 喜ぶ、かぁ、、、そやな。わてら、神様を喜ぶことに専念してたらええんやな。
楽しんだらええんやんな。熊、おおきにな。
若さん、やっぱりわてら、欠けの多い「主の宮」は、喜ぶしかないよな。
楽しむしかないな。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。そうですね、「主の宮」は、生きてるんですよね。生きているから優柔不断なところがあってもいいのじゃないでしょうか。それを肯定して、どんどん優柔不断になりなさい、って言っているわけではありません。「主の宮」として生きるっていうのは、成長させていただくということでもあるでしょう。聖霊様によって、欠けを金継ぎしていただける。二つとして同じ「主の宮」はありません。ということで、今日も宣言をします。
「主の宮として楽しみます。感謝!」と宣言したいと思います。
では、3回宣言いたしましょう。
「主の宮として楽しみます。感謝!」、「主の宮として楽しみます。感謝!」、「主の宮として楽しみます。感謝!」
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇27篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書2章19節。
「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」
黙想いたします。詩篇27篇。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:主の宮
https://www.youtube.com/watch?v=UlGwD10RZc8
賛美⑨:安息
https://www.youtube.com/watch?v=go99awkMi0U
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の主日礼拝は、7月21日 午後5時から小阪チャペルにて。
いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。
聖書: 出エジプト記21章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/