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メッセージ主題:『主にいつまでも仕える人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.7.21主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年7月21日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:主と共に

https://www.youtube.com/watch?v=X0oXrm91Uc0

賛美②:ここに(7月の曲1)

https://www.youtube.com/watch?v=n6kKRT2IdqA&list=PLYDQwRGBhtBtee1k2YNoebUKZMuLMgqpI

賛美③:祈ります求めます(7月の曲2)

https://www.youtube.com/watch?v=GRFbvWaGn5M

賛美④:イエスに高き誉れを

https://www.youtube.com/watch?v=8Z6ApMN9F1o

賛美⑤:主と共に歩む

https://www.youtube.com/watch?v=MVgG3l34ONQ

賛美⑥:夜も昼も

https://www.youtube.com/watch?v=MkV9W16shjA

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年7月21日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第21章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「しかし、もしもその奴隷が『私は、ご主人様と、私の妻と子どもたちとを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と明言するようなことがあるなら、その主人は彼を神のもとに連れて行く。それから戸または門柱のところに連れて行き、きりで彼の耳を刺し通す。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」(5-6)

メッセージ主題:『主にいつまでも仕える人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

出エジプト記21章では、20章後半から続く、主との契約であります。20章後半は、①祭壇についての決まり、21章からは、②奴隷についての決まり、③死に値する罪についての決まり、④身体の損傷についての決まり、⑤財産の損傷についての決まりがあり、それらの決まりは22章、23章と続いて行きます。今日はその中でも②奴隷についての決まり、その中の、奴隷が七年目に自由の身となるが、なおも同じ主人に仕え続けたい場合に、奴隷は神のもとに連れて行き、戸や門柱のところで、つまり周囲の人たちにも分かるように、奴隷の耳をきりで刺し通さなければならない。つまりピアスのように耳たぶに穴を開けるという必要があると、規定していることについて、考えてみたいと思います。

現代のピアスはファッションでありますが、古代エジプトでは入れ墨タトゥーと同様、魔除けとしても使われていたようです。しかし、ピアスは首飾りと同じくすぐにファッション性を帯びることとなり、現代に至っています。この出エジプト時代には、7年以内の奴隷と7年以上の奴隷、つまり志願奴隷との区別をつけるため、耳たぶに穴を開け、永遠なる奴隷であることを明示する必要があったと考えられます。主人に7年という年季奉公的な奴隷として仕えることを終え、自由な身となるか、それても主人との信頼関係があり、永久に奴隷として仕えるか、その選択と決意の象徴として、ピアスが必須となりました。

耳にキリで穴をあけるのは、ひょっとすれば、耳が一番痛みを感じず、無難なところなのかもしれません。少なくとも致命傷にはなりにくいでしょう。私は、今回次のところに心がとまりました。主人に生涯忠誠をつくす奴隷が、戸や門柱のところで、耳を刺されるというところです。戸や門柱というのは、私たちに、過ぎ越しの状況を思い出させるのではないでしょうか。出エジプト記12章7節のところに、傷のない雄の羊をほふり、「その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。」そして13節「わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしはその血を見て、あなたがたのためにしるしとなる、わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。」過ぎ越しのために屠られた雄羊は、私たちにとってはイエス・キリストを表します。イエス・キリストの血潮によって、私たちの罪の裁きはなきもの、帳消しにされました。

では、その過ぎ越しの門柱に塗られた血と、門柱で耳を刺される奴隷となんの関係があるのでしょうか。その門柱に塗られた血と耳を刺される奴隷との間にイエス・キリストがいらっしゃるのではないでしょうか。イエス・キリストは、十字架に五寸釘のような大きさの釘で手足を打ち付けられました。キリストのいけにえの血は私たちの罪を洗い流します。しかし、それだけではありません。私たちの罪を贖うという契約を十字架に打ち付けたのです。また、主人に生涯忠誠を誓うために、戸や柱でキリで耳たぶを刺し通す、これも生涯忠誠という契約を打ち付けたと考えられるでしょう。イエス・キリストも奴隷も、契約にいわゆる血判を押した感じではないでしょうか。

では、私たちは、ここから何を学ぶべきでしょうか。奴隷は、自ら進んで、主人に生涯忠誠を誓うために、耳を門柱に刺しつけました。私たちも、私たちの主に生涯忠誠を誓うために、耳を門柱に刺しつけましょう。いえいえ、そんな手荒な真似はしなくてもいいでしょう。イエス・キリストは私たちの代わりに十字架に血判をおしました。そして、私たちは、その血判の代わりに、イエス・キリストを救い主と信じるという告白をし、洗礼をうけます。しかし、私たちは、この奴隷のように主人に生涯忠誠を誓うための血判を押したのでしょうか。また、そのような覚悟をもって、洗礼を受けたのでしょうか。私は正直に言いますと、洗礼を受けた時、主に生涯忠誠を誓うと血判を押すという真剣さでは、洗礼を受けていなかったような気がします。

恥ずかしい話ですが、私がこの血判を押したのは、「主に福音を伝える者になりなさい、牧師になりなさい」と主から三度目に迫られた時でした。観念をして、もうすべてを主に捧げますと、主に申し上げたときでした。28歳で信仰を告白し、30年後の58歳の時でした。

牧師としての召しと言えばかっこいいですが、神様は「若竹、もっとしっかりしなさい」と言われただけのような気がします。私は、30年間、何をしていたんだろうと、自分勝手にこれが主の示す道だと思い込んで突っ走って、なぜ立ち止まってもっと主の声に聴き従っていかなかったのだろう。ほんとうに悔い改めました。もちろん、この30年間、主は、主の声に聴き従わない私を、さまざまな形で助け、導き、忍耐してくださいました。感謝いたします。

では、今は、主の御声に完全に聞き従っているのか、と言われれば、私には「分かりません」と言わざるをえません。私自身はそのように聞き従いたい聞き従っていると思っていても、それはひとりよがりの思いかもしれないと思うからです。先日、主は夢の中で「わたしの力を得よ」と告げられました。どのようにして「主の力を得る」のか「授かる」のか、まだ分からないでいます。大きなことをすることが、「力を得ている」証拠ではないと思っています。いま、老体ではありますが、その主の力を求めています。私は、ことし、「祈りは力」であることを実感させるできごとが私の身の周りに起こっています。「主の力を得る」ことは「祈り」を通してなのかもしれません。また、「聖書」を読むことも力を得ることに通じるでしょう。その主の力がどのように私に影響するのかは、まったく分かりませんが、とにかく「主の力を求めて」います。

また、今日の中心聖句を黙想している時に、パウロの告白を思い出しました。ガラテヤ書2章19-20節です。●「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」奴隷が戸口や門柱で耳を刺し通されたように、主に生きるために、自分自身、古い自分をキリストとともに十字架につけたことと同じであり、御子イエスに対する信仰によって、今を生きているのです。それは、イエス様が、●「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」とおっしゃるのと同じことなのではないでしょうか。パウロの言う「神に生きる」とは、「神に仕える」ということ「神に終生忠実をつくす」ということではないでしょうか。

今一度、皆さんにも私自身にも問いたいと思います。皆さんは、私は、本当に、古い自分を十字架につけ、神に生きているでしょうか。主に生涯忠誠を尽くそうとしておられるでしょうか。

さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。「生涯忠誠を尽くす」のことについてお二人はどう思われますか。

―――――

八: 「生涯忠誠を尽くす」なぁ、なんかお殿様と家来の関係みないなことになってるなぁ。

熊: 「お殿様に生涯忠誠を尽くす」か。お殿様のために生きる、ちゅうことやわな。

時代劇見てたら、己を無にして、お殿様に仕える、そんなお侍さんの話はようきく。

けんど、平民はどうなんやろ。村の人間や町の人間は、そこまで、忠誠を誓うことは

ないやろうな。

八: そりゃ、平民はお殿様に対して忠誠を誓うちゅうことはないかもなぁ。

平民はどちらかといえば、自由人や、まあいろいろと虐げられてはいたやろうけどな。

お侍さんのように、お殿様からお給金いただいているわけやないからな。

自分のおまんまは、自分で稼がなあかん。

熊: けんど、平民も誰かに仕えたいという気持ちはどこかにあったんとちゃうやろか。

例えば、農民は庄屋さんに仕える、商売人はお店の主人に仕える、

まあ、「仕えなあかん」ちゅうて強いられているところもあったやろうけどな。

八: そんなこと言い出したら、人間はどうしても群れる動物やと思うねん。生きていくなかで、

仲間が必要なんとちゃうやろか。そら、中には一匹狼や風来坊みたいな人もいはるけど、

仲間ができれば、そこにはリーダーとかボスも誕生するのが常や。

そんで、そのリーダーやボスに対して仕えるちゅう気持ちは、多かれ少なかれ

あるんとちゃうやろか。

熊: まあ、その「仕える、仕えたい」ちゅうきもちは、そのリーダーやボスが

頼りがいのある人かどうか、信頼できる人かどうかにもかかってくるわな。

八: 神様は、ひょっとしたら、わてら人間をお造りになった時、「仕える」ちゅう気持ちを

土に込めて造りはったんやないやろか。なんか、そんな気がするねん。せやから、

信頼できるお方に仕える、仕えたいちゅうことが素直にできるんとちゃうやろか。

熊: なるほどなぁ。さしずめ、わてらのリーダーはイエス様や。イエス様に仕えることに

熱心になったらええんやな。

八: そや、パウロはんもローマ書の14章でこう言うてはるやないか。

●「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人にも認められるのです。」って。

まあ、イエス様は一番信頼できるお方やから、お仕えするのは何も異論はあらへんな。

熊: それにやで、イエス様は、弟子たちに「仕え方」の見本を見せてくれはったやんか。

八: あ、弟子たちの足を洗いはった、あのことやな。

熊: そや、足を洗うのは奴隷の仕事や。あれ、最後の晩餐のときやろ、12弟子おったん

やから、ひとりひとりタライに新しい水くんで、汚れた足を丁寧に洗って、

ふき取りはった。

そんで、イエス様おっしゃいはった。●「主であり、師であるこのわたしが、

あなたがたの足をあらったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い

合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもする

ように、あなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:14-15)

八: イエス様が「仕える」模範をお示しくださった。それに、イエス様は、弟子たちに、

イエス様に仕えるということはどういうことなのかをおっしゃった。

●「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。

わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。

わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」(ヨハネ12:26)

熊: これって、イエス様が十字架にかかる少し前のことばやから、「わたしのいるところ」

ちゅうのは、つまり、十字架でもあるし、その後の天の御国でもあるよな。

八: せやから、イエス様はその前に、●「自分のいのちを愛する者はそれを失い、

この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」(12:25)

ちゅうてはるんや。

熊: わてやっぱり、イエス様について行って、イエス様にお仕えする。

同じ仕えるんやったら、一番信頼できるお方についていきたい。

八: そらそうやわな。わてらの罪を帳消しにしてくださる救い主やのに、

「友」と呼んでくださる。そんな腰の低いお方こそ、わてらのリーダーや。

だてに「イエス様いのち」の三ばかトリオやあれへん。な、若さん。そうでっしゃろ。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。そうですね、「イエス様いのち」の三ばかトリオとしては、イエス様に信頼して、イエス様について行く、イエス様にお仕えするしかないですよね。イエス様にお仕えすれば、天のお父様に栄光をお返しできることになりますからね。今日の出エジプト記の奴隷の規定のように、よろこんで主人に仕えるために自分の耳にキリで刺し通すぐらいの決意をもって、わたしたちも喜んで宣言しましょう。

「主にいつまでもお仕えします。感謝!」と宣言したいと思います。

では、3回宣言いたしましょう。

「主にいつまでもお仕えします。感謝!」、「主にいつまでもお仕えします。感謝!」、「主にいつまでもお仕えします。感謝!」

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇103篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書12章32節。

「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」

黙想いたします。詩篇103篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:主は我が力

https://www.youtube.com/watch?v=sMafMrM_CKY

賛美⑨:詩篇100

https://www.youtube.com/watch?v=47gMb8qY1-A

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、7月28日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記22章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/