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メッセージ主題:『主ひとりに一途な人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.7.28主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年7月28日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:聖なる聖なる

https://www.youtube.com/watch?v=xE_93O0HMl4

賛美②:ここに(7月の曲1)

https://www.youtube.com/watch?v=n6kKRT2IdqA&list=PLYDQwRGBhtBtee1k2YNoebUKZMuLMgqpI

賛美③:祈ります求めます(7月の曲2)

https://www.youtube.com/watch?v=GRFbvWaGn5M

賛美④:とうとき十字架

https://www.youtube.com/watch?v=rkv8w7icMYs

賛美⑤:愛する者は主のもとに

https://www.youtube.com/watch?v=cEDtl7tOoN8

賛美⑥:ガリラヤの風かおる丘で

https://www.youtube.com/watch?v=Ss4Ad45y-zc

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年7月28日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第22章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。」(20)

メッセージ主題:『主ひとりに一途な人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

出エジプト記22章では、①盗みと財産の保管の決まり、②他の神への信仰の処罰、③人道的律法、④祭儀的律法が記されています。

今日はその中の他の神への信仰の処罰を考えてみたいと思います。

中心聖句「ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。」

これは、20章で記されています、十戒の第一戒にあたります。

●「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(3)

この十戒はあくまでも、主が選ばれた民、イスラエルの民を対象としています。イスラエルの民が他の神を崇拝してはいけないということです。二心であってはいけないというものです。

この第一戒を破る者は、聖絶されなければならないとあります。この「聖絶」という表現は、新改訳独特のもので、口語訳や新共同訳では「断ち滅ぼす」とあり、リビングバイブル訳では「死刑」となっています。新改訳の解説には、『全く完全に無慈悲に破壊し、絶滅してヤハウェにささげる』ということだそうで、申命記7章26節と13章17節を参照するように示されています。

ちなみに、申命記7章26節「忌み嫌うべきものをあなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶されたものとなってはならない。それをあくまでも忌むべきものとし、あくまで忌み嫌わなければならない。それは聖絶の物だからである。」

申命記13章17節「その聖絶の物は、一部でも、あなたの手の中にとどまることがあってはならない。それは主が燃える怒りを収めて、あなたにあわれみを施し、あなたの父祖たちに誓ったとおりに、あなたをあわれんで、あなたを増やすためである。」18節「というのは、あなたは必ずあなたの神、主の御声に聞き従って、私が今日あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主の目にかなうことを行わなければならないからである。」

これは一神教独特、排他的な教えであり、多神教に慣れ親しんでいる民族、特に日本人にとってはなかなか受け入れられない教えであります。

日本での多神教は、人間が神をコントロールできるように、人間によって造られた名ばかりの神であり、ほんとうの真の神はおひとりだけのはずです。その真の神は世界を創造された神であり、常に義である存在です。義であるお方の言動もすべて義となります。ですから、神がおっしゃったことは、私たち人間が理解できようができまいが、常に義なのです。何が正しいのかは、義なる神のことば、つまり聖書を基準において理解しなければなりません。

そこで今日の中心聖句「ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。」ですが、真の神にいけにえをささげるというのは、①罪のゆるし、②完全なる服従の意味があります。真の神にいけにえをささげる一方で、他方、ほかの神々にもいけにえをささげるということは、真の神、全知全能の神の罪のゆるしの権威を信じていない、または軽んじている、そして完全に服従するのではなく、都合の良いことだけ服従の意志をしめす。つまり、ご都合主義であります。創造の真の神は、全知全能の神であり、ある条件に特化した、神々のすみわけができている分担型の神ではありません。縁結びの神、学業の神、厄払いの神、真の神は分業の神ではありません。

今日の中心聖句では、真の神にも仕えながら、他の神々にも仕える信仰者は、死刑だと言っています。ただ単なる死刑ではありません。神が忌み嫌う者として根絶されてしまうのです。肉的にも霊的にも抹殺されてしまうのです。

ただし、この聖絶を受ける人は、神が選ばれ、エジプトから救い出されたイスラエルの民のことでした。では、現代のクリスチャンに置き換えて考えてみれば、「他の神々にいけにえを献げる人」とは、他の神々に①罪の赦しを乞い、②完全なる服従を誓う人ということになります。家に神棚や仏壇のあるクリスチャン、親から受け継いだ仏壇や神棚であって、今は拝んでいないと言ったところで、神棚や仏壇は神の忌み嫌う物に違いありません。それを拝んではいないからと言って、家に留めているのは、神棚や仏壇が聖絶の対象ですから、それを保有している人も聖絶の対象になるのではないでしょうか。ある有名なエバンジェリストの先生の家には、大きな備え付けの仏壇があったそうです。その先生がまったく気にされなかったそうですが、真の神が忌み嫌うものを置いていること自体、問題ではないでしょうか。また、ある自称クリスチャンの方が、生業として陰で占い師をしていました。占いは呪術と同じ忌み嫌われる対象ですので、その方も聖絶の対象となってしまうのではないでしょうか。現代のクリスチャンが、聖絶の対象となっているクリスチャンを自らの手で死刑にするということはありませんし、社会的に許されていません。しかし、神が、そのクリスチャンを聖絶の対象とはされはしないでしょうか。

私たちの周りには、私たちの知らない、神の忌み嫌う物や事があり、それを無知が故に保有していたり、保持していたりしてはいないでしょうか。二心の原因となる物や事が、私たちの身の周りにはないでしょうか。私たちは、本当に目を覚ましていなければいけません。

私たちは、世俗的な世界、神の忌み嫌う物事が多い世界に暮らしています。私たちが、知らず知らずのうち、異教の風習や習慣に対して、文化的に麻痺しているとすれば、神の聖絶の対象にもなりかねません。日本は1パーセント以下のクリスチャン人口比率ですから、ほとんど異教文化の中で生きています。では、お隣の韓国はどうでしょうか。30パーセント、しかし、たかが30パーセントでありますから、韓国クリスチャンも異教文化の中に暮らしているといってもいいでしょう。また、アメリカも同じです。

それでは、異教文化の世界にいる私たちは聖絶される運命にあるのでしょうか。いえ、そのためにイエス・キリストはこの世に来てくださり、私たちの犯した罪だけではなく、私たちの内に潜む神の忌み嫌う要素をも、十字架に刺し通し、贖ってくださったのです。では私たちの責任として、私たちは何をすべきでしょうか。それは、聖霊の助けをかりて、罪を犯さないようにすることと、私たちの内にある聖絶すべき要素を発見し取り除いていただくことではないでしょうか。その要素は私たちの考え方であったり、態度であったりするのかもしれません。

私たちは、私たちの信仰が、真に、神のみ言葉である聖書に基づいているかどうかを常にチェックする必要があります。神が義であれば、神の言葉も義であります。そして、神のみ言葉が義であれば、聖書は私たちの義、常識となるべきであります。

さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。「聖書を自分の常識とする」のことについてお二人はどう思われますか。

―――――

八: わてらは、日本の文化の中で育っとるから、日本の常識がわてらの常識となっとる。

けんど、今日、若さんは、聖書をわてらの常識にする、ちゅうことを言うてはったな。

熊: わてらは、神様を一途にするために、聖書が基準とならなあかん、ちゅうてるんやろな。

八: けんど、それって難しいでぇ。わてらは日本の文化に、日本的な常識にどっぷり

つかっとるからなぁ。

聖書を常識として、わてら自身を上書きせなあかんちゅうことやろ?

熊: せやけど、聖書は、イスラエルの文化も入っとる。律法もあるし。

八: おそらくやけど、若さんの言うてる「聖書の常識」ちゅうのは、「イエス様の常識」

のこと、つまりはイエス様の教えをわてらの常識にせなあかんと言うてんのと

ちゃうやろか。

熊: 「イエス様の教えをわてらの常識」ちゅうねんやったら、分からいでもないわな。

なんせ、わてらは「イエス様いのち」や、「イエス様の教えがわてらの常識」

ちゅうのは、合点がいく。

八: 「イエス様の教え」ちゅうことは「イエス様の戒め」やわな。

ヨハネの福音書15章の10節に、こういうのがある。

●「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、

あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。」

熊: それって、あのぶどうの木の話のところやわな。

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」ちゅう。

八: そや、イエス様の戒めを守る、イエス様の戒めをわてらの常識とすることによって、

イエス様の愛にとどまっている、つながっていることになるんや。、、、とわては思う。

熊: ところで、イエス様の教え、戒めってなんや?

八: なんや今さら、ほら、あの有名なやつやがな。

「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」

熊: ああ、それやったら、もう一つは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」やな。

八: 「誠心誠意、主を愛しなさい」ちゅうことは、「神がわてらを愛されたように、

わてらも神を愛しなさい」ちゅうことやでな。

神様の愛は、ヨハネ3章16節で集約されとる。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を

信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

神様は、わてらを愛するがゆえに御子イエス・キリストをこの地上へとお送り

くださった。そして、イエス様もおっしゃっとる。●「人が自分の友のためにいのちを

捨てること、これより大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)

熊: キリストの愛をもってすべての事を行う、これがイエス様の教えやとしたら、キリストの

愛をもってすべてのことを行うことが、わてらの新しい常識ちゅうことになるな。

八: そや、それが神様の望んでおられることなんやろ。

熊: 神様の望んでおられることちゅうたら、ほら、テサロニケ書第一もそうやんか。

●「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

これが、イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(5:16-19)

八: これらの教えや戒めが、ぜんぶ、わてらの常識とならんとあかんねんやな。

熊: ということや。これらの教えは知っとったけど、わてらの常識となっていなかった

かもしれん。これからは、イエス様の教えをわてらの常識にしよ。な、若さん。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。そうですね、「イエス様の教え」を単なる教えとしてでなく、私たちの基準、私たちの常識として、私たちの考えに上書きしていただきましょう。

今日も宣言いたします。「主の教えを常識とします。感謝!」

では、3回宣言いたしましょう。

「主の教えを常識とします。感謝!」、「主の教えを常識とします。感謝!」、「主の教えを常識とします。感謝!」

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇63篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書5章19節。

「ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」

黙想いたします。詩篇63篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:主が来られる日まで

https://www.youtube.com/watch?v=5DcOIijIaKw

賛美⑨:主イエスの愛で

https://www.youtube.com/watch?v=6kk7wXyrBnA

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、8月4日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記23章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/