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メッセージ主題:『主の敵をわが敵とする人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.8.4主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年8月4日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:カルバリ山の十字架

https://www.youtube.com/watch?v=5Npifzvf7cA&list=RD5Npifzvf7cA&start_radio=1

賛美②:イエスはなれを呼びたもう

https://www.youtube.com/watch?v=mdPCDZxBg2w

賛美③:とうとき十字架(8月の曲)

https://www.youtube.com/watch?v=rkv8w7icMYs

賛美④:いのちの泉に

https://www.youtube.com/watch?v=lY0NwY--Zwg

賛美⑤:みくにのここちす

https://www.youtube.com/watch?v=iq3sxc_Cln8

賛美⑥:主よみもとに近づかん

https://www.youtube.com/watch?v=LkbpK3RkTL4

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年8月4日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第23章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「しかし、もしあなたが確かにその声(御使いの声)に聴き従い、わたしが告げることをみな行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となる。」(22)

メッセージ主題:『主の敵をわが敵とする人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

出エジプト記23章では、19節までは、21節から続く契約の具体的な内容であります。法廷での決まりごと、敵対する者とのかかわり、訴訟についての規定、7年目の安息年の決まり、安息日の決まり、主のための祭りの規定などがあり、その途中13節には、イスラエルの神以外の他の神々に対する禁止事項が挿入され、イスラエルの神にのみ仕えることが強調されています。また、20節からの主の導きの中でも24節には、「他の神々を拝んではならない」25節「あなたがたの神、主に仕えよ」とイスラエルの民には創造の神だけを礼拝し仕えることが強調されています。また、23章の最後にも、32節33節で、「ほかの神々と契約を結んではならない、異教の民を住み交わってはいけない」ことが記されています。逆に言えば、イスラエルの民にとって、異教への誘惑が多いということが事実としてあるということなのかもしれません。いえ、イスラエルの民が異教世界を旅しているのですから、主の道からそれてはいけない注意喚起をしているのです。

さて、その23章で、学ばせていただくのは22節。「しかし、もしあなたが確かにその声(御使いの声)に聴き従い、わたしが告げることをみな行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となる。」神がイスラエルの民の敵と戦い、勝利に導くと告げられています。ただし、この条件として、イスラエルの民が御声に聞き従い、命令を全うするならとあります。では、この条件を少しでも守ることができなければ、神は敵と戦い、イスラエルを勝利へと導くことをしないのかという疑問がわいてきます。私は先程、条件と言いましたが、これは、主の、主の民に対する命令であって、従わないという選択肢はイスラエルの民にはありません。ですから、言い換えれば、「御声に聞き従い、命令を全うしなさい。私はあなたの敵と戦い、あなたを勝利への導きます」と神はおっしゃっておられるのです。神はイスラエルの民の敵はわが敵と初めから決めているのです。その上で聞き従いなさいと告げているのです。

現代の私たちクリスチャンにも同じことをおっしゃっておられるのではないでしょうか。『わたしは、あなたの敵を敵とし、あなたの仇を仇とします。あなたを勝利へと導きます。あなたは私に信頼し聞き従って来なさい。』では、私たちの敵とは誰でしょうか。もちろん、私たちを迫害する人や事、クリスチャンゆえに私たちに言われのないいじめや汚名や疑いをかけられること。そして、恐らく最大の敵は、自らの心にはびこる悪であり高慢であります。パウロはそのことを次のように告白しています。ローマ書7章18節19節●「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善がすんでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行なわないで、したくない悪を行なっています。」自分の中に住む悪との葛藤を赤裸々に打ち明けています。24節●「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょう。」そして、その答えは、主イエス・キリストだけであると訴えます。パウロは自分のことを証しし、読み聞く私たちも同じ境遇にあり、同じ悩みを持つ者として、答えを明確に提示しています。キリストがパウロの中に潜む悪と戦って下さり、最終的に勝利を得させてくださるのです。そのことをパウロはローマ書16章20節で、●「平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。」とも説いているとおり、私たちが、主なるキリストに信頼しより頼むことによって、その勝利は実現すると主張しています。

しかし、私たちの戦いを主にゆだねるというのは、ある意味正しいのですが、それでは、私たちは無責任すぎませんか、と私などは思ってしまうのです。これは、私たちの戦いなのですから、ただただ傍観していてはいけません。今、パリでオリンピックが開かれています。自分の贔屓の国やチームや個人を応援しています。まるで自分自身がその競技に参加しているかのように、一喜一憂します。まして、私たちの人生における戦いは、私たちは当事者です。しかし、私たちはとても非力で、私たちの戦いの相手は、私たちが束になってもなかなか太刀打ちできない相手です。ですから、主が私たちと共に、いえほとんど主がおもに闘ってくださるのです。私たちの敵を主の敵として、私たちの仇を主の仇として。

では、私たちは私たちの責任としてどうすべきなのでしょうか。どう戦うべきなのでしょうか。それは、私は、意識改革の戦いだと思うのです。神は、「私たちの敵を神の敵として、私たちの仇を神の仇として」戦われます。私たちは逆に、「神の敵を私たちの敵として、神の仇を私たちの仇として」立ち向かう意識と勇気をもたせていただかなくてはならないのではないでしょうか。

では、神の敵とは、神の仇とはいったい何でしょうか。神に背くもの、神を無視するものが、神の敵だと考えられますが、それは悪魔や悪魔に魅了されてしまった人、そして悪がはびこるこの世もその世を愛するものも、神の敵であると言えるでしょう。ヤコブの手紙には次のように記されています。●「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」世界は神がお造りになられたものですが、アダムとエバに罪がはいってから、人間のつくる社会には悪がはびこっています。それが神の敵であり、世を愛し、世を友とする者はだれでも、神の敵となるのです。とくに、クリスチャンが神そっちのけで、世を愛し、世を友とするなら、神を大いに悲しませることになるでしょう。しかし、私たちは、そのような世で育ち暮らしています。ましては、育ててくれた親がクリスチャンでなければなおさらです。私たちにも、世を愛し、世を友とする傾向が生まれながらの性質としてもっています。私たちは、しっかり意識改革をし、この世に住んでいながら、世を愛さず、世を友としない、この世の世界観の中で暮らしてはいますが、世に振り回されず、しっかりと聖書信仰に立つことが大切です。

さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。「神の敵を敵とし、神の仇を仇とする」のことについてお二人はどう思われますか。

―――――

八: わてな、今日のところを聞いてて、イエス様の言葉を思い出した。

ほら、「イエス様に味方せえへん人は、イエス様に敵対する人や」ちゅうところ

あったやろ。

熊: ああ、それルカの11章23節やな。●「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、

わたしとともに集めない者は散らしているのです。」

八: そうそう、それ。別の言葉で言いかえたら、「イエスかノーか、はっきりしなさい。」

ともおっしゃっておられるような気がするわ。イエス様に従うんやったら、中途半端に

従うんやのうて、誠心誠意従う。イエス様とともに道を歩むんやったら、よそ道にそれたらあかん。

熊: なるほどなぁ。そういう風な考えもできるわなぁ。それやったら、マルコの福音書

9章40節の「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です」ちゅうのと

同じか?

八: 反対せえへんちゅうのは、消極的な賛成ともとれるわな。ちょっとグレーゾーンの人も

含まれてしまっとるちゅうか。だって、そやろ。「反対の人、手を挙げて」って言うて

誰も手を上げんかっても、それが全員賛成とも限らん。同時に「賛成の人、手を挙げて」

って尋ねても、全員が手を挙げるとは限らん。「よう分からん」ちゅうグループも

おるからな。

けんど、このイエス様のお言葉は、その前にヨハネがイエス様に言いはったことが

きっかけや。38節や。●「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を

見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」

悪霊を追い出すちゅうのは力ある業や。中途半端にイエス様を信じてなせる業やない。

弟子の仲間入りをせえへんかったからゆうて、イエス様を信じてないものやない、

まして、イエス様にたてつく人たちともちがう。せやから、イエス様は

●「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です」ちゅうておっしゃった。

せやから、あの「反対しない人」ちゅうのは、実はグレーゾーンの人とはちがうんや。

弟子の仲間入りして、ぞろぞろイエス様については行かへんかっても、きっちり、

イエス様を信じている人たちなんや。

熊: なるほどなぁ。そんで、話を元に戻すとやで、「神様の敵」は「イエス様の敵」でもある。

つまり、「イエス様に味方せえへん人、イエス様を非難し攻撃する人」のこっちゃろな。

え? ちょっと待って。「イエス様を認めへん人」は「イエス様の敵」か?けんど、

イエス様を認めへん人ちゅうのは、イエス様を救い主と知らん人でもあるやろ。

つまりは、世の中の人たちや。わてら、その人たちに福音を伝えようとしてんのと

ちゃうか。世の人はみんな、イエス様の敵か?

八: あ! そう言われてみればそうやわな。そんなら、「イエス様を認めん人、知らん人」は、

わてらの敵とは違うのかもしれん。わてらの仲間になりうる人たちなんやから。

熊: それに、今、気がついたんやけど、キリスト者を迫害していたサウロはどうや。

サウロはキリスト者を迫害するのに命かけてた。それが、ダマスコ途上で、イエス様に

おうて変えられはって、イエス様を信じる者となって、名前もサウロからパウロに

変わりはった。イエス様の敵やった人が、イエス様の弟子となりはった。

それに現代やったら、あの映画の長編大作「ベン・ハー」の原作者、アメリカの将軍で

もあり著名な文学者でもあったルー・ウォレスはんはどうや。あの人は過激な無神論者

やった。そんでもって、「イエスは神の子やない」ことを証明しようと、えらい勉強し

はって、論文も書き始めて、けんど結局「イエスは神の子であった」と告白されて、

ベンハーを書きはった。敵が敵やのうなった。サウロもルー・ウォレスも。

ちゅうことはどう考えればええんや。「神の敵を敵とし、神の仇を仇とする」って?

八: やっぱりこれ、「神の敵」ちゅうのは、人間のことやないんとちゃうやろか。

わてらの敵は、人間も含まれるかもしれんけど、人間は「神の敵」にはとうてい及ばん。

なにせ、神が人間を自分の形に似せて、つまり神様と意思疎通できる者として、

神様を感じる者としてお造りになられたんやから。

そやから、「神の敵」は「悪そのもの」や。若さんな、最後の方で「世を愛し、世を友

とする者はだれでも、神の敵となりうる」ちゅうてはったけど、あれは間違いやな。

こんまい人間が、神の敵になりうるわけがあれへん。

神にとって、人間は土のちりあくたなんやから。

熊: あ、それでか。イエス様が「なんじの敵を愛せ」っておっしゃったのは。あの「敵」は

人間なんやな。マタイの5章44節のところで、●「自分の敵を愛し、自分を迫害する

者のために祈りなさい」ってイエス様はおっしゃった。この時の「敵」は「迫害する

人間」のこっちゃ、サウロのことでもルー・ウォレスはんのことでもある。

「敵を愛す」ちゅうことは、「敵のために祈りなさい」ちゅうことやんな。

せやから、人間は神の敵やない。「神の敵」は、悪でもあり、悪がはびこるこの世でも

ある。それは、若さんがいうように、弱さゆえに、わてらの内にも、それになびく傾向がある。先週のメッセージでもあったように、聖書がわてらの常識とならんとあかん。

わてらの常識は、イエス様の教えによって書き換えてもらわなあかん。

わてらは、意識改革が必要なんや。毎週の礼拝の心構え、ローマ書12章にあるように「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。」これが大事なんや。

な、若さん、「神の敵」は人やない、悪とその悪がはびこる世、

そして、それになびきそうになるわてらの弱さや。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。ご指摘ありがとうございます。確かに、「神の敵」は人ではなく、悪とこの世とそれになびく私たちの弱さですね。私たちは、イエス様から、人間の敵をふくむ隣人を愛すことが、戒めとして与えられています。「私たちの敵」といえば、人間を対象にしがちではありますが、実はそうでなく、私たちは、「神の敵」に対して敏感でないといけないのだということであります。今回は、そのことに気づかせていただき感謝いたします。

さて、今日も宣言しましょう。「神の敵をわが敵とします。感謝!」このことには、主の教えを常識とする意識改革が必要だと思います。そして、くれぐれも「神の敵は、悪を行なう人間ではなく、また悪にコントロールされている人間でもなく、悪とこの世とそれになびく私たちの弱さであることをしっかりと心に留め、主の教えを常識とする意識改革を願って、3回宣言いたしましょう。

「神の敵をわが敵とします。感謝!」、「神の敵をわが敵とします。感謝!」、「神の敵をわが敵とします。感謝!」

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇40篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ルカの福音書6章35節。

「しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。」

黙想いたします。詩篇40篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:ああ恵み!

https://www.youtube.com/watch?v=zZOfwmsJqg8

聖餐式

賛美⑨:歌いつつ歩まん

https://www.youtube.com/watch?v=VFp_wm8JihU

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、8月11日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記24章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/