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メッセージ主題:『主と生活を共にする人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.8.11主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年8月11日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:イエスよ十字架に

https://www.youtube.com/watch?v=uebpS6ypY8g

賛美②:いのちのパン

https://www.youtube.com/watch?v=oIXPaLs4S94

賛美③:とうとき十字架(8月の曲)

https://www.youtube.com/watch?v=rkv8w7icMYs

賛美④:私を守るお方

https://www.youtube.com/watch?v=MtPvndH5rrk

賛美⑤:聞け我らの賛美

https://www.youtube.com/watch?v=rh-5cTvhLMk

賛美⑥:私は奇跡を信じる

https://www.youtube.com/watch?v=-4xWq3uKOdU

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年8月11日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第24章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、食べたり飲んだりした。」(11)

メッセージ主題:『主と生活を共にする人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

出エジプト記24章では、神との契約の締結が行われました。モーセは主の言葉とすべての法および契約の書を書き記し、12部族の長老たちに読み聞かせ、民はみな声を一つにして、「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」と誓い、主に完全服従の印としての全焼のささげ物を祭壇に献げ、またモーセは、そのささげ物の血の半分を祭壇にふりかけ、もう半分を民に振りかけました。そして、次のことを民に告げました。●「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」

そして、契約の締結が終わると、神はそこにいた長老70人に対して、神を見ることをお許しになれらたのです。あれだけ、神は、モーセ以外の民が神に近づくことを禁止されておられたのですが、この契約の締結時だけは、特別に民に神の御前に近づくことをお許しになり、また御前で食事をすることを許可されました。それが、今日の中心聖句●「神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、食べたり飲んだりした。」(11)です。

なぜ、神は民に神の御姿を見ることを許されたのでしょうか。

この時は、神との契約の締結という、イスラエルの民にとっては最も重要な契約だったからではないでしょうか。モーセだけでなく12部族の長老たちもこの契約の当人でもあり、「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」と誓いを立てたのであります。この契約は英語では covenant という単語が使われています。普通のビジネスなどの契約や約束では、contract やagreement や promise などが使われます。このcovenant という契約は、契約を破れば、死を意味します。それだけ、重たい契約なのです。イスラエルの長老たちは、それをじゅうじゅう承知の上で、「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」と誓ったのであります。

しかし、結局、モーセを含む、この時の出エジプト第一世代のイスラエルの民は、この契約を守りきれず、結果、だれ一人として神との約束の地、カナンの地に足を踏み入れることはできずに死をむかえました。

では、このことを現代の私たちはどう考えればよいでしょうか。神は私たちに、罪の赦しを得させるために、御子イエス様をこの世にお送りくださいました。イエス様のいけにえの血、聖なるいのちによって、わたしたちの過去現在未来の罪を帳消しにしてくださいました。また、十字架の死から三日目によみがえり、その罪の帳消しの約束、天の御国での永遠のいのちの約束を永久のものにされました。そして、神は私たちをイエス・キリストを通して、神とまみえることをお許しくださったのです。

イエス様は次のようにおっしゃいました。●「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)また、同じくヨハネで、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)ともおっしゃいます。

この時のイエス様は私たちと同じ肉体を持っておられました。ですから、●「わたしを見た者は、父を見たのです。」とおっしゃっても、ある意味弟子たちは納得できたのかもしれません。神はもともと霊的な存在ですから、私たちの肉の目をもって見える存在ではありません。また、私たち人間は神の似姿に造られたとありますが、だからといって、神に実際の手や足があるというわけではありません。これは比喩表現、神が私たちに理解の範囲内で神の御業を現わす表現として知恵を与えてくださっておられると私は解釈しています。このモーセの出エジプト記には、モーセの民を日中は雲の中に、夜は火の中に、神がおられ、モーセの民を導いていることが示されていますが、神は雲でもなければ火でもありません。それと同じように私たちの目に見える者や事が神の御業であったとしても、神ご自身ではありません。ここに偶像礼拝との違いがあります。

では、現代の私たちには、イエス様ご自身も私たちと同じ肉体を持っておられませんので、どうしてイエス様を見るのかと疑問を抱かれる方もおられるかもしれません。クリスチャンの「イエス様を見る」とは、ひとつには、聖書に書かれている事柄から、イエス様を見ているのです。しかし、信仰をお持ちのない方が聖書を読んでも、イエス様が見えてこない、または間違ったイエス様像が見えている場合が多いのです。私たちの目に見える物は限られていますし、私たちは見ようとする物を見る傾向にあります。つまり、私たちは書物をこころで読んでいます。私たちのこころはわたしたちそれぞれの偏見があり、たとえ神のことばである聖書であっても、その偏見でゆがめられて読んでしまい、本当のイエス様がみえてこないこともあります。イエス様に焦点が正しくあてられていない読み方となるのです。そこで、必要なのが「こころの眼鏡」つまり聖霊様です。「こころの眼鏡」である聖霊様の助けをかりて、聖書を読んでいきますと、イエス様の真の御姿が見えてくるのです。しかし、それでもぼやけて見えることもあります。いえ、そのことだらけでしょう。パウロは次のように言い表しています。

●「今、私たちは鏡にぼんやり映るものをみていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」霊的なイエス様にダマスコ途上でお会いしたパウロでさえ、そうなのでありますから、私たちは、イエス様にしろ神様にしろぼんやりとしか見えていないのでしょう。しかし、その中でも、聖霊様によって、キラリと光るものを見せていただけることがあります。私は、その一瞬のキラリが嬉しくてしかたがない者でもあります。それが、いわゆる「霊の目で見させていただく」ということなのかもしれません。

私たちは、イエス様を通して、聖霊様の助けによって、神様とまみえることができるのですが、モーセの選ばれし70人の長老は、神と会見しその後で、食事をしたとあります。長老たちはとても嬉しかったのではないでしょうか。この食事をするという行為をもう少し考えてみたいと思います。もちろん、人はお祝い事だけではなく悲しい時も会食をします。冠婚葬祭時には会食がつきものです。長老70名にとっては、この時の会食は特別なものでした。会ったら死ぬと言われた神とまみえたのですから。

では、私たちはどうでしょう。教会で礼拝するときだけが、神様とまみえる時ではありません。いつでもどこでも神様とまみえることができます。イエス様を通して、私たちのこころにお住まいくださる聖霊様によって。これを恵みと言わずになんと言えるでしょうか。70人の長老は、やっと念願の神様にまみえました。私たちは、聖霊様によって、いつでもどこでも神様にまみえることができます。つまり、私たちの生活の中で、神様とまみえることができる。逆に言えば、神様とまみえるのに、特別な場所はいらない、いつでもが恵みの時であり、いつでもが会食のときであり、しかし、絶えず食べているわけにはいきませんから、70人の長老の喜びの会食は、私たちにとっては、日々の喜びの生活であるべきなのです。そうしますと、1テサロニケの5章16節「いつも喜んでいなさい」は、無理くり喜ぶ必要はないのです。主の共に生活するのであれば、それ自体が喜びであり、また18節の「すべての事に感謝」ともなるのであります。そう、私たちは、力んで無理して、喜び感謝する必要はないのです。主と共に生活しているだけで、恵みなのです。

さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。「主と共に生活している恵み」のことについてお二人はどう思われますか。

―――――

八: いやぁ、なかなかの展開やな。

熊: なんやねん、その展開って。

八: だって、そやろ。今日の中心聖句は、「神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、

手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、食べたり飲んだりした。」

な、70人の長老はんが、神様の会見のお許しがでて、神様にお会いして、

喜びの食事をした。ここまではええわいな。

それが、なんで、「主とともに生活している恵み」となんねんな。

熊: 八、おまん、きいてなかったんかいな、若さんの説明。

あの当時、一般人が神様とまみえるちゅうのは、恵み中の恵みや。歓喜乱舞に近い。

あの「食べたり飲んだり」ちゅう表現は、案外盛り上がった食事かもしれんな。

それが、今は、イエス様のおかげで、わてらのこころの中に聖霊様がお住まいや。

ちゅうことは、わてらが、主の宮、神殿やちゅうこっちゃ。わてらみたいなもんも、

主の宮なんやで。せやから、いつでも主にお会いできるちゅうこっちゃ。

70人の長老はんにしてみたら、うらやましい限り、毎日宴会してもええぐらいや。

わてらは、イエス様によって、そのぐらいの大きな恵みをもらっているちゅうこっちゃ。

八: なるほど、復習できてよう分かったわ。ほんで、もう一つだけ分からんことがあるんや

けどな。わてらは今、「鏡に映ったぼんやり映るものしか見てへん」、ゆうてたやんか。

昔の鏡はぼんやりとしか映らんかったから、それは理解できる。そやけど、

同じパウロはんがゆうてることで、2コリント3章8節●「私たちはみな、

覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、

主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによる

のです。」ってあるやんか。「鏡にように主の栄光を映しつつ」ちゅうてんねんけど、

この当時の鏡はぼんやりしてるやんか、ほなら主の栄光もぼんやりしてるんかいな。

熊: お、するどいとこついてくるなぁ。けんど、栄光ちゅうのは、光みたいなもんやろ、

顔の覆いがとれて光がさしてきてんのとちゃうか。ほんやりでも光は光や。

ほんでもって、主は光り輝いてはるから、わてらも光り輝いて行くちゅうことや

ないやろうか。まあ、このときの光は霊的な光やろうけどな。霊的な光はぼんやり

しているかもしれへんな。まあ、ぼんやりしとるわてらには、そんなのが似合とる。

八: なるほどなぁ。ぼんやりしてても光は光か。イエス様がモーセはんとエリヤはんと

いっしょに話されてた時には、「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように

白くなった」(マタイ17:2)とゆうことやから、もっと強烈な光やろうけどな。

けんど、わてらには、熊が言うように、ぼんやりとした光が似合とるかもしれへんな。

まあ、神様とお目通りしたモーセはんの顔も光り輝いてはった。

まあ、どんな光やったんかは分からんけど、アロンはんはちょっと恐れてはったわな。

わてらもそんな光放つんやろうか。

熊: 目に見えるような光なんかは分からんけど、顔が明るくなるんは確かなんとちゃうか。

わてらの中に聖霊様がお住まいくださってはるんやから、毎日の生活が恵みや。

そうおもたら、喜んで感謝するしかないやろ。喜んで感謝してたら顔が明るうなる。

八: 栄光から栄光へ、わてらも神様の栄光が現れる生活をしたいものや、顔明るうしてな。

な、若さん。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。そうですね。神様の栄光が現れる生活、それは私たちがいつも喜んで笑顔で顔を明るくして、どんなことがあっても主に感謝する、また感謝しようとすることが大切なんですね。神様の栄光が現れることは、必ずしも大きい事ではありません。人生の世的な成功は、神様の栄光とは限らないでしょう。ほんの些細な事、いえ些細な事でも感謝することが神様の栄光が現れることなのではないでしょうか。ですから、パウロはテサロニケの「いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する」ことが、「キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と強調するのです。つまり、神の栄光が現れるのは、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する」ことだからです。

さて、今日も宣言しましょう。「神の栄光が現れる生活をします。感謝!」大きなことだけではなく、かえって小さなことに祈り喜び感謝する、そのことを念頭に置きながら、3回宣言いたしましょう。

「神の栄光が現れる生活をします。感謝!」、「神の栄光が現れる生活をします。感謝!」、「神の栄光が現れる生活をします。感謝!」

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇100篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ルカの福音書7章20-21節。

「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

黙想いたします。詩篇100篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:大いなる方に

https://www.youtube.com/watch?v=hp5TtPKORyE

賛美⑨:栄光から栄光へと

https://www.youtube.com/watch?v=tr_tC2T5dAk

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、8月18日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記25章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/