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メッセージ主題:『主に自由にまみえることのできる幸いな人生 』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.8.25主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年8月25日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:注がれた愛

https://www.youtube.com/watch?v=O4GB9ceaNWc

賛美②:イエスその御名は

https://www.youtube.com/watch?v=KyyeJYWEm6o

賛美③:とうとき十字架(8月の曲)

https://www.youtube.com/watch?v=rkv8w7icMYs

賛美④:だれでもキリストのうちに

https://www.youtube.com/watch?v=QcfW1CJkmis

賛美⑤:主の前にひざまずき

https://www.youtube.com/watch?v=0JUc0GASGf4

賛美⑥:満たしてくださる方

https://www.youtube.com/watch?v=zG8267wwtAc

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年8月25日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第26章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「その垂れ幕を留め金の下に掛け、垂れ幕の内側にあかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所の仕切りとなる。至聖所にあるあかしの箱の上には『宥めの蓋』を置く。」(33-34)

メッセージ主題:『主に自由にまみえることのできる幸いな人生 』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

出エジプト記26章では、(A)幕屋を覆う幕、(B)幕屋の壁板と横木、(C)至聖所の垂れ幕、(D)天幕の入り口の幕、これらの作り方と設置の仕方が事細かく記されています。現代では、いわゆる仕様書とか説明書とか呼ばれるものですが、私は、ただこの仕様書を読んだからといって、幕屋のイメージがつかめるかといわれると言われると、まったく皆無であります。イラストや図もないわけですから、神から細かい指示を正確に従っていれば造られるのでしょうが、俗人の私には無理っぽいです。というわけで、先人の解説書や設計図を読みながら、まずは私が理解したことをざっくりと説明させていただきます。

(A)幕屋を覆う幕

幕屋を覆う幕は、4種類の幕からできています。内側から①ケルビム(智天使)が織り出された聖なる幕、②ヤギの毛で作った天幕、③赤くなめした雄羊の皮で作った天幕のおおい、④ジュゴンの皮のおおい。

おおざっぱに申し上げますと、いえ、今の私にはおおざっぱにしか言えませんが、、、。

ケルビムが織り出された聖なる幕は、キリストと聖霊とがユダヤ人と異邦人の救いについて表されているそうです。ケルビムとは智天使とも呼ばれ、神殿の奉仕者、神をほめたたえ、神が聖であり、神の力を強調する天使です。幕屋の亜麻布は、青、紫、緋色のより糸が用いられています。青は空つまり天を表し、緋色は赤土の色を表し、紫は、青と緋色の混合色で、紫はキリストを表します。肉体をもった聖霊または聖霊に満ちた肉体、つまりはキリストを象徴してると言われています。土のちりから造られた人間と天からの聖霊の融合がキリストであり、紫であるのです。また紫の色をだすのはとても大変で高価であることから、紫は王のイメージでもあります。

ヤギの毛で作った天幕は、黒色で罪を表します。また、罪人であるという意識を思い出させます。

赤くなめした雄羊の皮で作った天幕のおおいは、主の任務に対する献身と従順を象徴します。

ジュゴンの皮のおおいは、人間の目から見たら価値のないもの、つまりメシアなる方の謙遜と屈辱の生涯を想起させます。

これらの幕は、私たちの人間からだと、外側から内側に物語が綴られています。

メシアのイエス様は、ナザレというさげすまされた町の大工の息子であり、救い主としての任務を神に対して従順に実行します。それは赤の色で象徴された聖なる血。その血が覆うのはヤギの黒色の皮が象徴する罪、罪人。黒の罪が血の赤によって罪の贖いがあります。決して私たち人間が幕屋の中に入って目にできないのが、ユダヤ人と異邦人がともにキリストと聖霊によって贖われ、神の御前に出ることが許されるというものです。つまり天の御国が象徴されているのではないかと思われます。

(B)幕屋の壁板と横木

この木材はアカシヤの木であり、出エジプト時に持ってきたものです。硬くとげがあり、朽ちることも虫が食うこともないもので、その原木を、表面を削り滑らかにしたものを使っています。私たちが聖所に至るときには、世のとげを落とされ、心滑らかにされ、堅い信仰で朽ちることのない者とされるのであります。アカシヤの木はキリストの人間性(私たちの生きている限り目指す目標)でもあるのです。

(C)至聖所の垂れ幕

垂れ幕は、青色、紫色、緋色のより糸で織られた亜麻布で作り、ケルビム(智天使)を織り出さなければなりませんでした。青色はキリストの起源、を、紫色はキリストの王権を、緋色はキリストの犠牲による贖いを象徴しています。この説明は先程の説明と少し異なります。説明書によって少し異なる解釈がされていることを覚えておいてください。垂れ幕は、聖所と至聖所を仕切っている隔ての幕で、垂れ幕を通ることなしに至聖所に入ることができないので、ごく選ばれた祭司しか入ることが許されませんでした。イエス・キリストが十字架の上で人類の罪の贖いを完成された時、この垂れ幕は上から下へと裂かれました。

(D)天幕の入り口の幕

この幕も至聖所への垂れ幕と同じ仕様の亜麻布が用いられ、入口の柱としてアカシヤ材が使われました。

さて、ここで至聖所の垂れ幕の説明の中にある、今日の中心聖句を見てみましょう。

中心聖句(33-34)

「その垂れ幕を留め金の下に掛け、垂れ幕の内側にあかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所の仕切りとなる。至聖所にあるあかしの箱の上には『宥めの蓋』を置く。」(33-34)

幕屋建設の前は、モーセ以外は神との接見は許されていませんでした。ただし、モーセを通しての神との契約の直後には、12部族の長老70名が神を見、そして、食事おそらく宴会のようなものをしました。幕屋建設後は、至聖所には大祭司しか入ることが許されていません。

至聖所には、あかしの箱(契約の箱)中には、十戒が刻まれた石の板二枚、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖が置かれていました。それと『宥めの蓋』(贖いのふた)であります。これはあかしの箱のふたで、両端には二つの金のケルビムがおかれ、その翼は広げられふたを覆っていました。ケルビムの視線は、宥めの蓋の上にあり、そこには神の臨在があると考えられています。

その至聖所を仕切っていたのが分厚い垂れ幕だったのですが、それは、イエス・キリストの十字架の上での贖いが完成した時、つまりイエス・キリストが死を迎えた時に、上から下まで裂けました。マタイの福音書には次のように記録されています。

●「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(50-51)

その時点から、誰もが自由に至聖所にはいって、神と直接に対峙することができるようになったのです。そして、三日後に復活されたイエス様がイエス様を信じ告白する者に、聖霊をその者の心にお送りくださり、聖霊がその者の心にお住まいくださるがゆえに、その者は聖なる宮、神殿とされるのです。ですから、いつでもどこでも、主とまみえることができるのです。

そのことを、ヘブル書には次のように記されています。

●「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、わたしたちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に地が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」

このことはまったく正しいことです。しかし、実のところ、イエス・キリストを主と信じあがめる私たちが全員、裂かれた垂れ幕を通って至聖所に行き来しているのでしょうか。

幕屋の入口を通り、つまりイエス・キリストを信じようとして、罪の赦しのための青銅の祭壇を通り、洗盤で日々の洗いとして手を清め、聖所の中に入って、日々の糧である御言葉というパンを金の机からいただいたとしても、その奥にある至聖所で、金のケルビムが見ている『宥めの蓋』の上にある、永遠に輝く光、主のご臨在の栄光を見、そして神との親密な交わりに自らを置いていなかったとしたら、なんのために、キリストによって垂れ幕は裂かれたのでしょうか。

私たちはもっともっと大胆に神の御座に近づき、神を賛美し、神の恵みをうけることができるのです。また、そのようなクリスチャン生活を送るべきなのです。そのことが、詩篇100篇の4節「感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ。」であらわされています。この聖句は神殿の境内を表していますが、新約時代の私たちにとっては、主の門とはキリストご自身であります。

イエス様はおっしゃいます。

●「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)

「出たり入ったりして、牧草を見つけます」の「牧草」とは、日々の糧であったり、日常の必要なものであったり、永遠のいのちでもありますが、私は「主との親しい交わり」ではないかと考えています。そして「出たり入ったり」とは「いつでもどこでも」ということであり、この聖句は、「イエス・キリストを信じれば、いつでもどこでも主との親しい交わりがもてる」という意味だと、私はとらえています。なんという素晴らしい恵みでしょう。「いつでもどこでも主の御前にでて語り合える、自分の気持ちを聞いていただける、祈れる」ということです。そのことを可能にしたのが、イエス様がお送りくださる助け主である聖霊様です。

先程も問いましたが、実のところ、私たちは、日々の生活の中で、イエス様という門を通り、出たり入ったりして牧草という恵みや平安や喜びを見つけているのでしょうか。もしそうでないとしたら、何のためにイエス様を信じたのでしょう。イエス様はおっしゃいます。●「神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)神の国は、イエス様ご自身のことを指しているようにも思えますが、聖霊の宮である私たちの心の内に神の国があるとも言えるでしょう。

さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。「神の国はあなたがたのただ中にある」とはどういうことだと思われますか。

―――――

八: 「神の国はあなたがたのただ中にある」そうやな、難しい神学は分らんけど、聖霊様が

わてらの心にお住まいくださってるんやから、わてら自身が主の宮や。ちゅうことは、

神の国は、その主の宮の奥ちゅうか、主の宮の至聖所にあるんと違うやろか。

どう思う、熊は。

熊: 至聖所ちゅうたら神様とまみえるところ、神様の声をお聞きするところやろ。若さんの

言うてた『宥めの蓋』の上のケルビムはんたちが見つめていはるところやわな。

そこには、主の栄光の光があるんやろ。わての神の国のイメージでは、光に包まれて

わてらは白い衣をきて賛美と祈り三昧や。ほら、ヨハネの黙示録にもあるやつや。

●「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民(くにたみ)、部族、民族、言語

から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を

身にまとり、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。

『救いは、御座に着いておられる私たちの神と子羊にある。』」ちゅうて。

八: ああ、黙示録7章9節10節やわな。

熊: その神の国が、至聖所の『宥めの蓋』の上にある光の中にあるちゅう感じやな。せやから、

わてらは、いつでもどこでも神様とお出会いすることができるんや。

その気になりさえすればやけどな。

八: なんや、「その気になりさえすれば」って?

熊: だって、そやろ。聖霊様である神様はわてらの心の中にいらっしゃる。いつでもどこでも

交わえるように。けんど、わてらが、幕屋に入って、日々の罪の赦しをえて、手を洗い、

まあ悔い改めて罪から遠ざかるちゅうこっちゃろうな、そんでもって日々の糧である

聖書の御言葉を腹に入れて消化して自分のものとして、お香の壇のところで、神様への

賛美、わてらの心のいけにえを捧げ、至聖所に向かうんや。

そんで、神様とおめどおりや。

八: ちょっと待って! そんなややこしいことせんと、神様に会われへんのか。

熊: ああ、かんにん、かんにん。言い方わるかったな。毎日のように、心新たにして、聖書の

御言葉を心に刻んで、神様を賛美してたら、いつでも神様はおうてくださる。

いちいち、これせえへんかったら、神様に会われへんちゅうのとちゃう。

イエス様がそのようにしてくださったんや。

八: ということは、わてらはいつでもどこでも神様とお会いできるけど、その準備として、

悔い改めてるべきところはすぐに悔い改めて、神様を賛美して、聖書の御言葉に

慣れ親しんでるということが大切やちゅうことなんやな。

熊: そやがな、それそれ。わての言いたかったことは。

「神の国はあなたがたのただ中にある」ちゅうのは、日々の生活において、すべての

ことを神様に感謝しなさい、ちゅうことでもあるし、御言葉を日々の生活に活かし

なさいちゅうことでもある。イエス様が聖所と至聖所のしきりの垂れ幕を裂きはった。

わてらはその恩恵の中で生かされとる。せっかく生かされてんねんから、

神様を感じな損や。

八: せやな。神様からの恵みは喜んで受けさせていただこう。それにこしたことはない。

な、若さん、そやろ。それにしても幕屋の記述はおもろいなぁ。つきつめていくと

ぜんぶイエス様にたどり着くように設計されてはる。イエス様が天地万物創造の時から

いらっしゃる、ちゅうのんも納得やわ。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。「神の国はわたしたちのただ中、わたしたちの生活にある」ということでありますが、逆に言えば、私たちの生活こそが神の国とならなければならない、ということでもありますね。日曜日の礼拝とかだけではなくて、日常の生活、料理や食事や掃除も洗濯も学びも、神の国が映し出されていなければならないのでしょう。私は、鍵となるのは、十字架の贖いの喜びと平安だと思っています。また、神の国はイエス様ご自身であると考えれば、イエス様を完全に受け入れ従う者でなければなりません。中途半端な受け入れ方では、中途半端な信仰しかもつことなく、不安定で日和見主義的な神の国の観方となってしまい、結局は、神の国を得ることはできないのかもしれません。どちらにしろ、中途半端な信仰では、皆さんの生活の上にイエス様が現れては来ません。イエス様を信じるなら徹底的に信じてみましょう。

では、今日も3回宣言します。仕切りとしての垂れ幕を取り去ってくださったイエス様の十字架を想いつつ、喜びと平安とともに宣言をします。「生活に神の国が現われるようにします。感謝!」

「生活に神の国が現われるようにします。感謝!」、「生活に神の国が現われるようにします。感謝!」、「生活に神の国が現われるようにします。感謝!」

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇33篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ルカの福音書18章17節。

「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」

黙想いたします。詩篇33篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:きぼう

https://www.youtube.com/watch?v=MjHwX3simOg

賛美⑨:力ある主の御名

https://www.youtube.com/watch?v=gWa6ahDb9GU

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、9月1日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記27章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/