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メッセージ主題:『主に襟を正し、かつ主に憩う人生 』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.9.8主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年9月8日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:十字架のかげに

https://www.youtube.com/watch?v=R9vGB6qbnac

賛美②:主がそばにいるから

https://www.youtube.com/watch?v=ikdWPBdaqd0

賛美③:全てをイエスに(9月)

https://www.youtube.com/watch?v=rGoKpEoqRYU&list=OLAK5uy_nUeYXx_rPmW4Oa7m90rTD5tYFoUBObN8I&index=8

賛美④:イエスに高き誉れを

https://www.youtube.com/watch?v=8Z6ApMN9F1o

賛美⑤:ひれ伏しあがめる

https://www.youtube.com/watch?v=7yr18-PDWo4

賛美⑥:あなたの御名を

https://www.youtube.com/watch?v=v0SVuz9CJdQ

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年9月8日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第27章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。」(2)

メッセージ主題:『主に襟を正し、かつ主に憩う人生 』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待します。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

出エジプト記28章には、祭司の服装のことが事細かく記されています。(A)エポデ、(B)胸当て、(C)上着、(D)額当て、そして(E)アロンとその子らの衣服。

神は、モーセの兄弟アロンとアロンの子らが祭司として、威厳と美しさを添える聖なる祭服を作るようにと命じます。かれらは祭司として、幕屋の至聖所まで入ることを許されたもので、至聖所に入るためには、それなり服装が必要であると神は仰せになります。それは、民に対してというよりは、神の使い、祭司自身としての服装であります。つまり、神を前にして「襟を正す」ということなのかもしれません。幕屋の外は日常、幕屋の内は非日常であることを以前に申し上げました。

つまり幕屋の内は非日常であり、服装も非日常であるべきだったのです。少し時間を割いて、これらの服装のことを考えてみましょう。

エポデ

なかなか、理解しにくいのですが、祭司のエプロンのような胸当てを固定する腹巻とサスペンダーのようなものがエポデで、金色、青、紫、緋色の撚糸で作られています。この撚糸はすべての祭司の服装に用いられています。

(B)胸当て

祭司の正方形の胸当てで、そこには12の宝石が埋め込まれています。12の宝石は12部族を表しています。つまりイスラエルの民を表し、エポデは、祭司が神と民の仲介者であることを示すものであります。

(C)上着

エポデと胸当ての下に着る青一色の服で裾には、4色の撚糸で縁取りされています。その裾には鈴がついており、その音によって聖所の中で死ぬことがないようにしています。

(D)額当て

「主の聖なるもの」と彫られた純金の札をかぶりものの上につけ、いけにえが主の前に受け入れられるようにするためのものであります。

(E)アロンとその子らの衣服

祭司が聖所での務めをおこなうためだけの下着を亜麻布でつくる。

このように非日常の幕屋の内で祭司として神の御前にでるということは、徹底的に聖別された服装をまとわなければいけませんでした。徹底的な聖別された服装ということは、その中身である人間そのものも聖別されていなければならないということでもあります。

では、現代の私たちはどうでしょう。例えば、男性であればネクタイをしめて礼拝に向かう方も今だ多く見受けられます。それは、主の前にあって、襟を正すという気持の現われでしょう。「襟を正す」という意識から身なりを整えるというのは、正しいことですし、身なりは心の現れともいわれますから、それはそれで尊重すべきです。しかし、ただ単に身なりを整えただけで、心や意識が伴っていなければ、整えられた身なりは、神に対してではなく、人の目に対して行われているような気がします。

私は、この「襟を正す」という言葉が気に入っています。国語辞典で調べますと、①自己の乱れた服装や姿勢を整える、②それまでの態度を改めて、気持ちを引き締める、とあります。私たちはクリスチャンとして、この二番目意味、神に対して、それまでの態度を改めて、気持ちを引き締めることが大切だと思っています。

神とまみえるのは、礼拝のときだけではありません。私たちは、私たち自身が聖霊様の宿る主の宮ですから、いつでもどこでも主が共いいらっしゃるわけです。ですから、私たちが主の臨在を感じる時、また主を求める時、「襟を正す」必要があるのではないでしょうか。「襟を正す」ということはある意味、緊張を伴うかもしれません。しかし、私はある程度の緊張をともないつつ神とまみえることは、心を正していただくという意味でもよい事ではないかと思うのであります。しかし、その一方で主に憩う、主の御腕に抱かれるすばらしさ、そこには緊張ではなく、主にすべてをゆだねる、一種の解放感、平安に満たされる、また満たされようとする心。主にまみえる時、私たちはこの二つの両方向にある心の在り方が、相反するものではなく、共存しているのではないかと思われて仕方がありません。

人間は軽い緊張であったとしても、緊張の連続では生きていけません。肩の力を抜いて安らぐ必要があります。生活とはそういうものではないでしょうか。そして、それが主と共に生きるということではないでしょうか。

アロンを代表とする祭司たちは、主とまみえる幕屋のなかでは緊張の連続だったかもしれません。しかし、イエス様は主とまみえる緊張だけではなく、主に憩う安らぎを与えてくださいました。イエス様はおっしゃいます。マタイの福音書11章28-29節

●「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」

私たちは、イエス様によって本当に恵まれています。幕屋にはなかった、主の御腕の中に安らぐという特権が与えられていることに感謝いたします。

少し話は変わりますが、皆さんは、万人祭司という言葉をご存じですか。ルターが、すべてのキリスト者は祭司である、一人一人が神とまみえることができると説きました。勘違いをしてはいけないのは、すべてのキリスト者が牧師であったり、癒しの力や預言の力をいただいたりということではありません。パウロは第一コリント12章27節で次のように唱えています。

●「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」

からだにはそれぞれの機能があってなりなっているのと同じように、教会もそれぞれの教会員にそれぞれの役割が与えられて成り立っています。

また、エペソ1章22-23節では

●「神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」

また、コロサイ書1章18節では、教会のかしらであると言われています。

●「御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めてあり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。」

私たちは、それぞれが主の宮であり、主と個人的にまみえることができますが、天の御国での公同の教会の影としてこの世での教会があります。ですから、私たちが不完全なように、この世での教会も不完全です。しかし、その不完全なこの世の教会であったとしても、お互いに励まし合い、福音を伝えるためには有効なのです。

万人祭司とは、キリスト者ひとりひとりが主の宮であり、主を個人的にまみえることができ、かつキリスト共同体としての教会を構成する機能であり、大切な主の宝なのであります。

私たちは、同じ信仰をもつ者たち同士の励ましと喜びの共有、心ひとつとなっての祈りもとても大切なのですが、そのことは、万人祭司、キリスト者として個人的に主にまみえ、主にあっての緊張と安らぎを継続的に経験することが大前提にあるのです。ひとりひとりが主の御前に出ることができなければ、教会は成り立たないのです。

さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。今日の中心聖句の最後の箇所の「主の御前に襟を正す」とはどういうことだと思われますか。

―――――

八: 「襟を正す」なぁ。昔、若さん、信徒の時に、教会に行くときには、ずっとネクタイして

はったよな。ネクタイしめると何か身が引き締まるちゅうてたけど、会社に勤めてた時

にも毎日ネクタイ締めてはって、帰って来るとネクタイ解いて、ほっとするちゅうか、

そんな感じやったよな。

熊: 日曜日かてそうやったでぇ。夕方に教会から帰って来るとほっとするちゅうて、

ネクタイ外して。教会も緊張するもんなんやな。

八: ええ感じの緊張なんかもしれへんけんどな、けんど、ネクタイ外すと、神様もはずして

しもてる感じやともゆうてたな。

熊: 若さん、そのとき、自分がみじめやゆうてた。神様外したくないのに、知らず知らずの

うちに外してしもて、神様を感じられへん時がある。

八: そんで、そのみじめさすら、感じられへんようになってしもて、また日曜日を迎えて

しまう。そんな時があった、ちゅうて嘆いてたなぁ。

熊: 心の襟を正さなあかんのに、平日にそれがなかなかでけん。自分の力ではでけん。

そのみじめさの中で、イエス様にさけんだ、「どうにかしてください、イエス様」

八: ほんまに、よう泣いてはったなぁ。

熊: 外ではそんなふりみせへんけど、水前寺清子の歌で「ボロは着てても心は錦」ちゅうのが

あるけど、若さんはその反対やった、「外面良くても、心はボロボロ」。

八: そんな時やで、わてら、イエス様の三ばかトリオを結成したのは。

熊: あ、そやったそやった。ひとりやったら、そのみじめさから抜け出されへん。

そやから、アカン者どうしが、励ましあおう、ちゅうて。

八: 「イエス様いのちや」ちゅうて宣言して、イエス様を大好きになろうちゅうて。

熊: イエス様大好きやから、イエス様いのち同盟を結んだんやのうて、イエス様大好きに

なろう、いつでも感謝するものになろう、聖霊様にそれを助けていただこうちゅうて。

八: ほんでから、若さん、いつからやったかなぁ、できるだけネクタイをしめんようになった。

はじめはネクタイはずすのが怖い、神様もイエス様も聖霊様も外してしまいそうやから。

けんど、結局、普段着の信仰でいく、ちゅうて。

熊: 普段着のまま、オンもオフも関係なく、イエス様を感じたい、聖霊様に導かれたい

ちゅうてな。

八: オンもオフも関係なく、心の襟正すんやって。緊張もするけど、イエス様に憩うんやて、

安らぐんやて。

熊: あ、わてら、若さんのことばっかり言ってしもたな。わてらはどうなんや。

八: わてら、もともとネクタイなんてもってへんからな。いっつも普段着やろ。

まあ、寝る時だけはちゃうけど。

熊: お、寝間着もってんねんや。

八: そら、寝巻ぐらいあるわいな。

熊: せやわなぁ。まあこの「襟を正す」ちゅうて服装のことを言うてんのちゃうけどな。

八: わかってるわいな、そんなこと。わてらは、心ではイエスキリストを着てるんや。 アロンはんたちは、幕屋に入るとき、下着から何から何まで、聖なる服に着替えはった。

つまり、裸になって聖い服を着たんや。

熊: せやなぁ。わてらと一緒や。裸のままでイエス様という聖なる服を着たんや。

八: ほんでもって、このイエス様の衣は、着心地がええねん。亜麻布で作った服はカラっと

してて着心地がええ、汗でべとつくことも少ない。それと同じや。

熊: ということはあれやな。祭司はんの服も亜麻布で作られてるから、イエス様を

着てるんと同じやちゅうことか。

八: わてらの「襟を正す」ちゅうのは、亜麻布で作られた服を着るように、イエス様を着てる

ちゅうことやな。そんで、それが普段着なんや。

若さん、今日は若さんの暗黒時代の話してしもてごめんな、かんにんやで。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。私の暗黒時代の話は、耳が痛いですね。けど、事実ですから仕方ありません。私は、八さんと熊さんの助けられました。イエス様いのちの三ばかトリオがなかったら、一人ではあの暗黒時代をどうぬけだせたか分かりません。まことに、●「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)は真実でした。さて、今日も宣言いたしましょう。「主にあって襟を正し、かつ主に憩います。感謝!」です。

「主にあって襟を正し、かつ主に憩います。感謝!」、「主にあって襟を正し、かつ主に憩います。感謝!」、「主にあって襟を正し、かつ主に憩います。感謝!」

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇46篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書14章26節。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

黙想いたします。詩篇46篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:昼も夜も

https://www.youtube.com/watch?v=MkV9W16shjA

賛美⑨:マラナタ・主が来られる日まで

https://www.youtube.com/watch?v=z-tvvE53K_A

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、9月15日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記29章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/