ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2024.9.15主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)
●午後5時開会:ただいまより、2024年9月15日主日礼拝式を始めます。
●祈り
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:主の前にひざまずき
https://www.youtube.com/watch?v=0JUc0GASGf4&list=UULF2bYkF3QBwD0UO2dpqM6Jeg&index=6
賛美②:イエスその御名は
https://www.youtube.com/watch?v=KyyeJYWEm6o&list=UULF2bYkF3QBwD0UO2dpqM6Jeg&index=4
賛美③:全てをイエスに(9月)
https://www.youtube.com/watch?v=rGoKpEoqRYU&list=OLAK5uy_nUeYXx_rPmW4Oa7m90rTD5tYFoUBObN8I&index=8
賛美④:あなただけがわれらの神
https://www.youtube.com/watch?v=lpOuvLb12rg&list=UULF2bYkF3QBwD0UO2dpqM6Jeg&index=43
賛美⑤:涙とともに・聖戦をふれよ・ホザナホザナ
https://www.youtube.com/watch?v=hNqONrjvvfY&list=UULF2bYkF3QBwD0UO2dpqM6Jeg&index=29
賛美⑥:主のみ言葉待ち望む
https://www.youtube.com/watch?v=eMiTgz-SzBY&list=UULF2bYkF3QBwD0UO2dpqM6Jeg&index=16
【YOUTUBE配信開始】
2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。
年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。
●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)
するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。
人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、
パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。
また、二匹の魚も皆に分けられた。
彼らはみな、食べて満腹した。
そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。
パンを食べたのは、男が五千人であった。
●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)
イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
●2024年9月15日 主日礼拝メッセージ
「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。
そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。
(会衆)
罪の奴隷からの解放
聖別された個となるための務め
神の臨在による神との親しい交わり
●聖書拝読:出エジプト記第29章(新改訳聖書2017)
朗読: 若竹
中心聖句:
「アロンとその子らを会見の天幕の入り口に近づかせ、水で彼らを洗う。」(4)
メッセージ主題:『み言葉によって清められる人生 』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待します。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
出エジプト記29章には、(A)幕屋の聖所に入る時の祭司聖別の儀式と(B)日ごとの献げ物のことがしるされています。
28章では、神は、モーセの兄弟アロンとアロンの子らが祭司として、威厳と美しさを添える聖なる祭服を作るようにと命じました。そして29章では、いよいよ聖所に入るまえに、幕屋の庭にある祭壇と洗盤を使った儀式が示されています。
祭司聖別の儀式
29節の記述順では、①水で洗う、②油を注ぐ、③祭壇にある雄牛の血を祭司の右の耳たぶ、右手の親指と左足の親指に塗る、④祭司の祭服に祭壇の血を振りかける。しかし、これらは聖所に近いところにある儀式順であり、祭司たちにとっては、聖所に入るための順番は逆であります。
神に近づく祭司たちの聖別の儀式を祭司たちの支度の順番に、現代の私たちの支度として見ていくことにしましょう。
4祭司の祭服に祭壇の雄牛の血を振りかける
「いけにえの血を振りかける」で思い出すのは、24章でイスラエルの長老70名と神の契約「主の言われたことはすべて行います。聞き従います」と誓った時でした。その契約が永遠のものとして、祭壇と長老たちに血を振りかけました。これで契約が成立するわけですが、この祭服に血を振りかけるのは、契約成立という意味よりも、死なないためのものです。エジプトを脱出する前、エジプトにいる全ての長子が神の怒りによって死にました。しかし、鴨居と柱にいけにえの血が塗られた家の長子は死から守られました。それと同じことが祭司の祭服に血が振りかけられることで祭司が聖所に入っても死なないことになるのです。祭司の全ての儀式は神と会見するがゆえに「神を見ると死ぬ」と言われていることから遠ざかるためのものであります。28節の青色の上着の裾につけられた鈴もそうでありました。しかし、現代の私たちにとっては、祭服に血を振りかけるのは、契約の成立でもあります。神は、契約のために、御子イエス様をお送りくださりったのです。また、イエス様の血潮によって、私たちの罪は帳消しにされ、私たちの霊的な衣は雪よりも白くなるのです。
3祭壇にある雄牛の血を祭司の身体の一部に塗る
「雄牛の血を祭司の右の耳たぶ、右手の親指と左足の親指に塗る」という行為ですが、祭壇にささげられたいけにえの血を体の一部に塗り、体の全体に塗ったのと同じ意味になるのではないかと私は考えています。私のリサーチと理解が足らないので、ここまでなのですが、いけにえの血を塗るという行為は現代の私たちにとっては、イエス様の十字架、罪の贖いを現わすのではないかと考えています。つまり、血を塗るという行為は、イエス様の救いを信じるということ、その宣言をするということです。信仰によって義される根本であります。
2油を注ぐ
油を頭に注ぐ行為は、祭司や王様などの権威者にたいして行われるもので、聖別を意味します。現代の私たちには、イエス様を信じた時点で聖霊様が私たちの心に一生涯とどまり続けてくださいます。油は聖霊を意味します。幕屋の聖所にも燭台があり、そこには常に油を注がれています。
1水で洗う
会見の天幕、つまり聖所の入り口の近くで、水で彼らを洗うことが記されています。これは洗盤の水を使うことになる訳ですが、洗盤、つまり青銅製の大きなたらいであります。洗うのはソロモンの神殿にあるような水浴、つまり全身欲ではなく、30章19節にあるように、手と足を洗います。このたらいに直接手を入れるのではなく、水を器ですくって手と足を洗ったようです。しかし、この手と足を洗う儀式は、聖所に入る最後の段階であります。
新約聖書の水のバプテスマ、神への悔い改めを示していますが、この手と足を洗う儀式もその意味も含まれていると思われます。聖所に入る時、水による悔い改めによって、神とまみえる最終の段階を通過するのです。
ヨハネの福音書4章にあるサマリアの女のところを思い出してみてください。イエス様は、その女に次のようにおっしゃいました。
●「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(13-14)
水とは、御言葉であり真理であります。詩篇1篇2-3節には、主の教えは水に例えられています。
●「主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」
御言葉は、私たちの日々の霊的な糧であり、主の知恵でもあり真理でもあります。み言葉にふれるとき、私たちは悔い改めへと導かれる、イエス様の十字架と復活を思う心、神様を愛する心へと導かれるのです。ですから、日々、御言葉を味わうことはとてもとても大切なことであります。
私たちを含め生き物には水が必要なように、私たちには御言葉が必要なのであります。
詩篇42篇1節では、そのことを次のように表現しています。
●「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」
「み言葉に生きる」ということをキリスト者の間ではよく耳にする言葉ですが、では、どのようにすることが「み言葉に生きる」ということでしょうか。
ある方は、「聖書のみ言葉を思い巡らし、そこに神の語りかけがあると信じ、自分の生活のどの分野に神の語りかけがあるかと黙想すること」だとおっしゃいました。また、ある方は、「聖書のみ言葉を通して、神の語りかけにたいする応答を具体的に実践すること」だとおっしゃいました。聖書をただ単に読むのではなく、それを黙想する、思い巡らす、そして実践する、実践しようとすることが大切です。聖書の註解書は一般向けではありませんから難しい、ましてや神学書は手を出す気持ちにすらならないでしょう。私が信徒の時代に好んで読んでいましたのが、説教集です。これはやはり信徒や未信者を対象として礼拝説教でありますから、比較的わかりやすい。
とにかく、み言葉は私たちの霊的いのちの糧なのです。イエス様はマタイ4章4節で次のようにおっしゃいました。●「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」イエス様は、申命記8章3節の言葉を引用されたのです。私たちは、物質だけではなく、精神的・霊的にも満たされる必要があることを、いえ霊的に満たされることが一番であることを説いたものです。
クリスチャンであろうがなかろうが、霊的に満たされることが「人」として「生きる」「生かされる」ということだとすると、聖書のみ言葉は、決してキリスト者だけのものではなく、全人類の霊的満たしに必要なものなのです。
さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。八さん熊さんは「聖書のみ言葉に生きる」生き方をされていますか。
―――――
八: 「み言葉に生きる」ちゅうのは、さっき若さんが紹介してはったように、「聖書のみ言葉
を思い巡らし、そこに神の語りかけがあると信じ、自分の生活のどの分野に神の語り
かけがあるかと黙想すること、また神の語りかけにたいする応答を具体的に実践する
こと」ちゅうことやわな。
なんか、難しそうや。簡単に言うとしたらなんや、熊?
熊: え、わてにそれを振んのかいな。そやなぁ、「み言葉に導かれているか」ちゅうことも
その一つかもな。
八: み言葉に導かれてる?
熊: そやがな。例えば、イエス様の言葉やったら分かりやすいかな。
「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」(マタイ7:1)
わてなぁ、このみ言葉を読んで、わては、よう人を裁いていることを思わされた。
もしろん、声に出して裁いてるんとちゃうでぇ、心の中で裁いてしもとる。
まずは、このみ言葉で気づきが与えられる。そんでもって、人を裁かんようにしようと
心がける。「裁きは主のもの」や。そやから、人を自分の価値観でおしはかっては
あかん、イエス様やったらどうされるかちゅうのを考えんとあかんねん。
八: なるほど、み言葉には、気づきと実践の二つの効果があるちゅうことか。それやったら、
このみ言葉もわてには大切や。
●「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:6)
「つまずく」ちゅうことは、歩いてる場所をよう見てへんちゅうことになるわな。
わてな、ぼーっとして歩いてたら、こんなこんまい石にもつまずいてよろけることが
ある。それとおんなじで、信仰生活もボーっとしながら歩んでたら、イエス様に
つまづいてしまうこともある。このみ言葉は、イエス様を信じられへん人のことを
言うているようやけど、実はボーっとしてるクリスチャンにも、イエス様は
おっしゃってはるんや。
熊: わっ、わて今の今まで、そんな風には考えてなかった。けんどほらな、それが
「み言葉に導かれる」ちゅうことやわ。気づきと実践や。
●「いつも目を覚ましていなさい」(マルコ13:35)ボーっとしてたらあかん、
ちゅうこっちゃ。
八: あ、それと、その「目を覚ましていなさい」のみ言葉の後には、
●「わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。
目を覚ましていなさい。」(マルコ13:37)ちゅうのが続いてる、これさっき若さんが
言うてはったように、み言葉は万人のためにあるちゅうのを、イエス様ご自身がおっしゃってる。
若さん、どうでっしゃろか。「聖書のみ言葉に生きる」ちゅうのは、「み言葉に
生かされている」ちゅうことでもあって、「心の中にいらっしゃる聖霊様に導かれて
いる」ねんやわな。若さん、「み言葉に生きる」ちゅうのは、「聖霊様に御言葉を通して
導かれる」ちゅうことでもあるのかもな。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。「み言葉に生きる」は「み言葉に生かされる」ということでもあるし「聖霊様に導かれる」ということでもあるんですね。「み言葉に生きる」ことには、気づきと実践が伴う。そうでないと「み言葉は、私たちの心の中で生きてはいない、死んだもの、素通りするもの」となってしまいます。さて、今日はそうならないように、「み言葉に生きます。感謝!」と宣言したいと思います。体を水で洗うように、聖書のみ言葉によって心を洗っていただきましょう。
「み言葉に生きます。感謝!」、「み言葉に生きます。感謝!。感謝!」、「み言葉に生きます。感謝!。感謝!」
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇119篇129節~144節です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書8章31-32節。
「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
黙想いたします。詩篇119篇129節~144節。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:主イエスの血潮で
https://www.youtube.com/watch?v=KmUiFOCWoEg
賛美⑨:あなたの愛は
https://www.youtube.com/watch?v=TsymME-2OYY&list=UULF2bYkF3QBwD0UO2dpqM6Jeg&index=40
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の主日礼拝は、9月22日 午後5時から小阪チャペルにて。
いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。
聖書: 出エジプト記30章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/