ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2024.10.20主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)
●午後5時開会:ただいまより、2024年10月20日主日礼拝式を始めます。
●祈り
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:やすかれ、わがこころよ
https://www.youtube.com/watch?v=2n_rrDdbnG8
賛美②:イエスわがすべて
https://www.youtube.com/watch?v=7daD1ScUOpI
賛美③:主を見上げて(10月)
https://www.youtube.com/watch?v=Fqjg6exDzdI
賛美④:あがめます主の聖名
https://www.youtube.com/watch?v=mNyEBhzzrb8
賛美⑤:君は愛されるため生まれた
https://www.youtube.com/watch?v=UK7Ai2sUe2s
賛美⑥: あなたがすべて
https://www.youtube.com/watch?v=B5EfsD13TIc
【YOUTUBE配信開始】
2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。
年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。
●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)
するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。
人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、
パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。
また、二匹の魚も皆に分けられた。
彼らはみな、食べて満腹した。
そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。
パンを食べたのは、男が五千人であった。
●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)
イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
●2024年10月20日 主日礼拝メッセージ
「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。
そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。
(会衆)
罪の奴隷からの解放
聖別された個となるための務め
神の臨在による神との親しい交わり
●聖書拝読:出エジプト記第34章(新改訳聖書2017)
朗読: 若竹
中心聖句:
「それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主の話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。」(29)
メッセージ主題:『主と語り、輝きを失わない人生 』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待します。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
出エジプト記34章では、32章でモーセが40日40夜シナイ山にこもり、二枚の十戒の記された石の板をもち帰って来たとき、民たちは神を拝むための金の子牛を作って、どんちゃん騒ぎし、それを見てモーセは怒り心頭、二枚の石の板を叩きつけて割ってしまいました、その二枚の石の板を、神はもう一度用意しなさいとモーセに言いつけます。そして、モーセは前回と同じように一人でシナイ山に上り40日40夜山にこもり、神の仰せの通り岩に十の戒めを書き記し、山を下ります。もちろん、その間に様々な神の戒めも賜りました。神と40日40夜語り続けたモーセは顔の肌が輝きを放っていました。
31章と32章のシナイ山での神との親密な会見のときには、モーセの顔は光り輝いていませんでしたが、今回の会見では違っていて、それ以来モーセは会見の天幕以外では、顔に覆いをかけるようになりました。
今日は、この「顔の輝く」ということを考えてみたいと思います。
「顔の輝く」というところで、私が思い出すのは、伝道者の書8章1節です。
●「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる。」
人の顔を輝かせるのは、人の知恵とありますが、人の知恵とは人間の知恵のことなのでしょうか。伝道者の書の著者は、1章16節17節で次のように告白しています。
●「私は自分の心にこう言った。『今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。』私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。」
そして、1章2節の有名な句に至る訳です。
●「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」
著者が言いたかったことは、全知全能、この世界の造り主である神を知らずして、または無視して、人間の知恵を振りかざしても、神の知恵に及ぶものでは到底なく、人間の知恵や知識を追い求めることは浅はかで空しいと主張しているのであります。
では、伝道者の言うところの「人の知恵」とは、どういう知恵なのでしょうか。それは、神から与えられた知恵、また神の御言葉そのものなのです。
使徒パウロはそのことを第一コリント2章1節2節で次のように語り宣言します。
●「兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」
パウロは、アテネで伝道しましたが、恐らくギリシヤ人に対抗して知恵を用いてイエス・キリストを証ししようとし、あまり成果があげられず、意気消沈してコリントに入って来たのです。しかし、持ち前の立ち直りの速さで、「十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまい」と宣言しました。御言葉を通してキリストを証しすること自体に宣教の力があることを悟ったのです。
伝道者の書の著者も同じです。ここで言うところの人の知恵とは、「神を恐れ神を知る」と言うことなのです。箴言1章7節に次の言葉があります。
●「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」
「主を恐れる」とは「主を怖がる」ことではありません。神を神として認め、神に対して畏敬の念を抱く、神を敬う、神を崇めるということであります。つまり、世界の創造主は、その神の創造物である私たちとは同等の関係ではないということであります。しかし、キリストが神と私たちの間を取り持ち、父と子、キリストの兄弟姉妹という親しみのある関係に変えて下さったのであります。だからと言って、現代に見られる友達関係の父親像ではありません。どちらかと言えば、「愛あふれる頑固おやじ」のイメージなのです。
ですから、伝道者の書のあの箇所を言い換えれば、「『神を恐れ、神を知る」者の顔は輝き、その顔の固さは和らぐ」のであります。神を知る知恵が、外面を変えていくのです。特にクリスチャンの顔は、私たちの内面、神を知る知恵からくる心を映す鏡のようなものだとも言えます。
諺に、「目は口ほどに物を言う」というものがありますが、顔の中で、口もとの表情もそうですが、目は一番表現豊かな器官です。「顔の輝き」は「目の輝き」でもあるとも言えます。もちろん、モーセの神と語らった時の「顔の輝き」は光を放っていたのですが、現代のクリスチャンの「顔の輝き」は、光を放つというより、主を賛美している表情、主を喜んでいる表情、顔が明るい表情だとも言えます。その意味で、「目の輝き」も大事です。なぜなら、私たちクリスチャンの目は、見えるものにではなく、見えないものに目を注いでいるからです。第二コリント4章18節には次のように書かれています。
●「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」
まさしく、神に目を留め続けることによって、希望に満たされて、目に輝きが保たれるのです。
また、「顔の輝き」は「顔色がよい」ことからも来るでしょう。箴言15章13節も語っています。
●「喜んでいる心は、顔色を良くする。心の痛みの中には、打ちひしがれた霊がある。」
心に喜びがあれば顔色を良くしますが、心に憂いがあれば気はふさぎます。もちろん、クリスチャンだって、人の子ですから、喜びもあれば憂いもある、周りの人と同じように喜怒哀楽の毎日です。キリストを信じることによる、「救われた」という喜びと確信からくる平安。そして、恵み中の恵みである聖霊様が心にお住み下さることによる「主が共にいる」という約束の成就。このことによって、喜怒哀楽の喜びと楽しみが人よりも多い、はずなのであります。
そして、実に神の戒めは、私たちの品性を磨く、心を磨くためのものなのです。ですから、神はモーセを通して、うなじを固くする、自己中で高慢な民に、神の戒めを与え続けたのです。
もう皆さんは耳タコになっていると思いますが、クリスチャン生活の基本中の基本、第一テサロニケ5章16節~19節。
●「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません。」
私たちの心に喜びがあるなら、また、私たちの心に祈りがあるなら、そして、私たちの心に感謝があるなら、私たちの顔は輝き、力がみなぎり、また平安につつまれるのです。これこそが、神からいただいた知恵なのです。
そして、その知恵こそが、私たちを主と同じかたちに変えてくださるのです。
パウロは第二コリント3章18節に次のように説いています。
●「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
私たちの努力や力で、私たちは主と同じかたちに姿を変えることはできません。すべて、御霊なる神の働きによるのです。ですから、第一テサロニケ5章19節に「御霊を消してはいけません」と、内なる神の存在を感じない生活をしてはいけないとパウロは警告するのです。
自分の力で輝こうとする人は、はっきり言って神を侮る偽善者です。主と真摯に向かい合い、主こそ神であることを知りつつ、親密な交わりを保つことによって、主と同じかたちに変えられていくのです。すべては、私たちの心にお住まいくださっておられる聖霊様のお働き以外のなにものでもありません。
モーセは神に選ばれ、神との親密なる交わりを経験し、主のかたちに変えられ、顔が輝いたのです。
もし皆さんの顔が輝いていなかったとしたら、それは、皆さんの心がキリストに向いていない証拠かもしれません。聖霊なる神に、ゆだねるということをしないで、自分の力で輝こうとしてはいませんでしょうか。「人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる」のです。皆さんの心はどこを向いているでしょうか。イエス様はおっしゃいます。
●「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。」(マタイ6:19) 物という宝だけではありません。虚栄心、名誉や名声も地上の宝です。
●「自分のために、天に宝を蓄えなさい。」(マタイ6:20) 天での宝は、神への愛であり、賛美であり、祈りであり、感謝です。また、感謝こそ最高の神への供え物なのです。
イエス様との親密な関係を、聖霊様によって築き上げさせていただきましょう。
さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきます。八さん熊さん、「ご自分の顔が輝いているなと思われる時はどんな時でしょうか。」
―――――
八: 「顔の輝いている時」なぁ、、、最近エステ行ってないし。
フェイシャルコンディションボロボロやなぁ。
熊: 何が、エステや、何がフェイシャルコンディションや。
そんなん、したことあれへんやないか。
八: 自慢やないけど、フェイスパックちゅうのんか、あれ1回だけしたことあんねん。
熊: あの、韓国の人がようドラマでやっているやつか。顔真っ白のん。
八: いや、わての試したのは、真っ黒のやつやったなぁ。
けんど隣のお梅ちゃんが怖がってしもて、それっきりや。
熊: 八のフェイスパックしてるの想像しただけでおぞましいわ。
八: せやけど、あれ気持ちええでぇ。ちょっと不気味やけどな、鏡見たら。
熊: そんなん、どうでもええねん。今日の話の「顔の輝き」ちゅうのとはちゃうやないか。
八: 顔の輝きなんて、自分でどうしてわかるねん。モーセはんかてわからんかったんやでぇ。
熊: モーセはんは、神様と40日40夜過ごしはって、えもゆえん喜びに包まれてはったはずや。
その喜びも加わって顔が輝いてはった。
わての顔が輝いている時ちゅうのは、多分、イエス様の話を聞いたり話したりしている
時とちゃうかなと思うねん。「主のよくしてくださったこと」を聞いたり話したりする
のは、喜びやからな。
八: 顔が輝いているかどうかは分からんけど、喜んでいるときちゅうのは、笑顔になっている
から、明るい顔しているかもしれへんなぁ。明るい顔で、わて今思い出したけど、
イエス様の十字架の死のあと、イエス様の復活の知らせを知らん二人の弟子たちが、
自分たちの身にも危険がおとずれるのではって、エルサレムからエマオへ意気消沈して
逃亡するやんか。そこにイエス様ご自身が現れるんやけど、二人はイエス様やとは気が
付かへん。そんでもって、二人はイエス様と食事をする段になって、やっと心の目が
開かれて、自分たちの目の前にいはったのがイエス様やと気づくんや。いちもくさんに
エルサレムに引き返して、他の弟子たちに復活したイエス様に出会ったことを告げる。
そんときの顔はえらい輝いていたんとちゃうやろか。エルサレムにいたら命が危ない
かもしれん、ちゅうて逃げ出したのに、イエス様が復活されたと分かったとたん、
二人は勇気をえて、エルサレムに戻っていくんや。イエス様に勇気と喜びとパワー
もらいはったんや。エマオに向かっていたときには、顔が暗かったのに、エルサレムに
戻って来た時には、顔が明るうなってた。わてらもそうや。イエス様とお話しする時、
つまり祈っている時、賛美してる時、顔が明るうなってくるんや。
熊: 八、えらい語るなぁ。ええ?!
八: ええやないか。語らしてぇな。わて、この場面、好きやねん。あの弟子の二人、
わてもあの場におったら、同じことしてるやろうなって思うねん。
イエス様に会う前と会った後、イエス様before/after や。
熊: ええなぁ。イエス様before/after か。な、若さん、今日はこんなところで、
かんにんしとったるわ。
―――――
八さん、熊さん、かんにんしてもろて、ありがとう、ってなんでやねん。しかし、八さんは、あのエマオのところは大好きですね。なんべん聞いたことか、もう勘弁して、って感じです。
しかし、イエス様 before/after ですか。いいですね。イエス様を信じた時だけではなく、イエス様と語る前と後、それもイエス様 before/after です。毎日がイエス様 before/after で、私たちは毎日新しくされるのです。
さて、今日の宣言をいたしましょう。
今日の宣言は、イエス様 before/after のことを心に留めながら、「キリストの十字架とよみがえりをいつも思います。感謝!」です。
では、三回宣言いたしましょう。
「キリストの十字架とよみがえりをいつも思います。感謝!」、「キリストの十字架とよみがえりをいつも思います。感謝!」、「キリストの十字架とよみがえりをいつも思います。感謝!」
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇135篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書6章21節。
「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」
黙想いたします。詩篇135篇。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:すべてにまさって
https://www.youtube.com/watch?v=sYIl_scRnUE
賛美⑨:イエスのように
https://www.youtube.com/watch?v=vnJwEZpkHaA
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の主日礼拝は、10月27日 午後5時から小阪チャペルにて。
いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。
聖書: 出エジプト記35章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/