ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2024.10.27主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)
●午後5時開会:ただいまより、2024年10月27日主日礼拝式を始めます。
●祈り
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:いつくしみ深き
https://www.youtube.com/watch?v=f7fSqoXO8CI
賛美②:主よみもとに近づかん
https://www.youtube.com/watch?v=wzCCUZRoo2Y
賛美③:主を見上げて(10月)
https://www.youtube.com/watch?v=Fqjg6exDzdI
賛美④:大いなる方に
https://www.youtube.com/watch?v=YiJzyGBkiCE
賛美⑤:満たしてくださる方
https://www.youtube.com/watch?v=zG8267wwtAc
賛美⑥: あがめます全能の主
https://www.youtube.com/watch?v=fjOLLOMJMro
【YOUTUBE配信開始】
2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。
年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。
●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)
するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。
人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、
パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。
また、二匹の魚も皆に分けられた。
彼らはみな、食べて満腹した。
そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。
パンを食べたのは、男が五千人であった。
●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)
イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
●2024年10月27日 主日礼拝メッセージ
「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。
そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。
(会衆)
罪の奴隷からの解放
聖別された個となるための務め
神の臨在による神との親しい交わり
●聖書拝読:出エジプト記第35章(新改訳聖書2017)
朗読: 若竹
中心聖句:
「心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。」(21)
メッセージ主題:『自らを主に進んで献げる人生』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待します。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
出エジプト記35章は、主の戒めの今までの総括的なことがらを述べています。安息日のこと、幕屋設置にまつわるさまざまな決め事。そして、それの指揮をとる責任者の任命。幕屋を建て整えるための諸材料の献品と労働奉仕が記されています。
その中で、今日は21節から最後の35節までで強調されている、「心を動かされ、霊に促しを受け、知恵を用いたいと思わされ、進んで献げる心のある者」のことについて考えてみたいと思います。
この箇所では、幕屋にまつわる献品や労働奉仕が強いられるものではなく、神によって心を動かされ、聖霊に導かれて、進んでするものであることが強調されています。神はなぜモーセを通して、進んでするものでなければならないと伝えたのでしょうか。これは私の個人的な見解ですが、モーセの民はエジプトでは、400年間レンガ作りの奴隷でした。生まれながらに奴隷として生まれ自由もなく一生を自分たちの神ではなく、エジプトの神々の宮や王の宮殿や墓であるピラミッドのために否が応でもレンガ作りを強いられていたのです。しかし、今やエジプトを脱出し、奴隷の身分から解放され、自分たちの先祖からの神を堂々と崇めることができる状態になったのです。神は、信仰は強いられてするものではない、ことを強調されたのです。ましてや、献金や献品や奉仕は、強制されてするものではなく、主に感謝の気持ちを形や行動で表しただけのことです。このことで、私たちは、詩篇51篇の16節17節を思い出します。
●「まことに 私が供えても あなたはいけにえを喜ばれず、全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは 砕かれた霊、打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。」
新改訳第三版では、「砕かれた心」が「悔いた心」となっています。つまり神に向き直った心です。神の喜ばれる献げものは、心が伴わない物や行動ではなく、悔いた心、神への感謝です。では、神は献金や献品や奉仕を喜ばないのかといいますとそうではありません。心を入れ替えて、献げるものは、神は受け入れてくださいます。そのことは、同じ詩篇の18節19節に明らかにされています。
●「どうかご恩寵により シオンにいつくしみを施しエルサレムの城壁を築きなおしてください。そのとき、あなたは 義のいけにえを焼き尽くされる全焼のささげ物を喜ばれます。そのとき、雄牛があなたの祭壇に献げられます。」
「エルサレムの城壁を築きなおす」とは、悔い改めると言うことでもあります。悔い改めた時点でのいけにえは受け入れられるのです。
では、悔いた心、神への感謝だけで、献金や献品や奉仕はしなくて良いのかと言う問題が出て来ますが、献金や献品や奉仕は必須ではありません。しかし、神への感謝があれば、自然と、神に献げることに抵抗はないはずではないでしょうか。もちろん、この領域は神との個人的な領域ですから、他の人がとやかく言うことではありません。まして、牧師がああしなさいこうしなさいと一方的に助言する問題でもありません。神に感謝し、神を愛するのであれば、神が喜ばれることをしたいと思うのではないでしょうか。
ま、それはそれとして、イスラエルの民は、正しい方向であれ、間違った方向であれ、「神に献げる」と言うことに、なんと従順、いや無抵抗なのでしょうか。1回目のモーセの山籠りの時でも、民はモーセに見捨てられたと感じ、自分たちで神をあがめようと、金の子牛を作ってしまいました。この金は民がもっていた金の耳輪などの装飾品をささげ、溶かして子牛を作り、偶像礼拝をしてしまいました。偶像という間違った方向ではありますが、献げたのであります。人は目に見えるものに安心をし、目の見えないものに対して不安を抱きます。その不安が子牛をうんだのですが、感謝ではなく不安によって、金の耳輪をささげたのです。一方、モーセの指導によって幕屋建設が始まると、民は悔い改めと感謝と共に、建設に必要なものを進んでささげたのです。私は、神がイスラエルの民を選ばれ、守り導き続けている理由には、この「神にささげる」ということに抵抗なく従順であることも含まれているのではと思わされています。
不安をもって、いや不安に駆り立てられて主に仕えるのか、または感謝の心をもって、主に仕えるのか。ここに大きな違いが出てくるのではないでしょうか。
イエス様を信じているが、実は救いの確信がない、そのことが不安で、教会の奉仕に熱心になる。しかし、熱心になればなるほど、不安が増して来て、疲れ果ててしまう。そして、全てを、礼拝すること自体も放棄してしまう。教会から遠ざかるようになり、牧師や教会の兄弟姉妹からの声かけも鬱陶しくなる。しかし、主はその時を待っておられるのではないでしょうか。自分でなんとかしようという頑張りに疲れた時、苦しい時、そこに主がおられ、主に憩うことを初めて知ることになるのです。
●「やめよ。知れ。わたしこそ神。」(詩篇46篇10節)
私たちがあれやこれやと策を練ってみたところで、神の知恵にかなうはずもありません。
神を信頼し、神に拠り頼むことが一番の得策なのです。
●「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなた方は力を得る。」(イザヤ書30章15節)
「立ち返って」とは、『主の方を向いて、主に向き直って』という意味です。
●「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)
主に全面降伏する、というとなかなか抵抗される方もいらっしゃるでしょう、主に安らぐといえばまだ納得されるかも知れませんね。主に安らぐことを覚えれば、主がすべてを良い方向へと導いてくださいます。また、それに向かって歩み始める勇気と力を与えてくださいます。
●「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリント12章10節)
「弱いとき」とは、自分の力の限界を知り、主に応援を求める、いえ、主が私たちのリーダーとなって、私たちを導いてくださるとき、私たちは主の知恵と力によって強くなるのです。
さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきます。八さん熊さん、「何をすすんで主に献げるのでしょうか。」
―――――
八: 「進んで献げる」なぁ、、、わて、音楽でけへんやろ、声もそんなに良くないしなぁ、、、
お金はもちろんのことあれへんし、、、料理は食べる方は得意やけどなぁ、、、
熊: ほら、八はよう教会の庭の掃除してるやないか。あれも奉仕やから献げていることになる
んとちゃうか。
八: まあ、教会の庭の掃除だけとちゃうけどなぁ、、、公園も掃除しとる、けんどあれって、
公園は教会とちゃうやろ、社会奉仕ではあるかもしれへんけどなぁ、
それでも主に献げていることになるんかいな。
熊: ほら、若さん以前に言うてはったやないか、何事でも、主にあって喜んですることは
奉仕やて。
八: ああ、そんなこと言うてはったな。社会奉仕かて、主にあって、つまりは祈り心をもって、
喜んでしてるんやったら、りっぱな主への奉仕やて。
熊: わては、教会の奉仕や教会へのささげ物が、「主に献げる」ことやないと思うねん。
八: たとえば、どういうことや。
熊: そやなぁ、たとえば、今日、だれかからお土産もろたとする。それをおすそ分けやゆうて、
長屋のお鶴ばあさんにあげたり、いつもお世話になってるお梅ちゃんにあげたり。
わてはクリスチャンや、クリスチャンが祈り心をもって、お土産をおすそ分けする
のんを、神様はあかんとは言いはれへんと思うねん。
むしろ、喜んでくださるんとちゃうやろか。
八: そらそやわな。お鶴ばあさんにしてもお梅ちゃんにしても、まだイエス様信じてぇへん
けどな。そんなこと関係なく、神様が喜んでくださることをするのが、奉仕であり
献げることなんやろな。もちろん、教会の奉仕は大事やけどな。
ほんで、なんでわてにはあれへんの?
熊: なにがや、なにがあれへんねんて。
八: おすそ分けやがな。お鶴ばあさんやお梅ちゃんにはあげて、なんでわてにはくれへんの。
熊: おすそ分けかいな。そないに心配せいでもあげるがな。
八: おおきに。そんでなにくれるん。
熊: たとえばの話やないかいな。かなわんなぁ。
八: ほんで、熊やったら、「主にすすんで献げるものや奉仕」ってなにや。
熊: わては、喜んで生きているこっちゃな。
八: 喜んで生きていること? どういうこっちゃ?
熊: 若さん、いつも言うてはるやないか、感謝こそ最高の献げものや、ゆうて。
せやから、わて、「おおきに」ゆうて喜んでいるこそこそ、ええ証しになるんと
ちゃうかなぁって思てるんや。教会の中でも外でも、関係なくやでぇ。
わては、そのことが、わて自身を主に献げてることになると思てるねん。
八: なるほどなぁ。わて、「主に献げる」ちゅうことば聞いて、教会の奉仕や献げもののこと
ばかりを思てしもてたけど、それではあまりにも内にこもり過ぎている、視野が狭い
のんかもしれんなぁ。わてらは、1日24時間、毎日、主のものや、主に仕えるもの
なんやて思たら、教会だけが、奉仕やない。毎日の生活が、主の奉仕の場でないと
あかんねんな。
熊: 八、八はその意識は薄かったかもしれへんけど、毎日の中で、「イエス様いのち」の生活
してるやないか。わてら、「イエス様いのち」の三バカトリオや。ことあるごとに
イエス様意識して、「イエス様やったらどういう風にされるか」ちゅうことも考えて、
または考えようとして生活してるやないか。それこそが、「主に進んで献げること」と
ちゃうやろか。
八: わて、その意識をもって行動していなかったことを反省するわ。今、思い出したんやけど、
イエス様のたとえで、「もっとも小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたこと
です。」ちゅうのあったよな。
熊: それって、マタイの福音書の25章にでてくるやつやなぁ。
40節には、こんな風に王様が言いはった。
●「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、
それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」
ここで言われてる「わたしの兄弟たち」ちゅうのは、クリスチャンだけやない、
困っている人、何かを必要としている人のこっちゃ。おすそ分けで言うたら、長屋の
お鶴ばあさんやお梅ちゃんや。まあ、お鶴ばあさんやお梅ちゃんも困ってた訳やない
けどな。
八: そうか、やっぱり、わてははずれるんや。
熊: 八、またそこに戻るんかいな。もう、若さん、八、どうにかして。
―――――
八さん、あまり熊さんをいじめんときなさい。けれど、お二人が話されたマタイの25章40節の御言葉で思い出したのですが、その御言葉を中心にしたトルストイの「靴屋のマルチン」という有名な物語があります。
家族を亡くしたマルチンは、ひとりぼっちで心を閉ざして生活していました。靴屋として1日中働き、夜は聖書を読んで床につきます。ある夜聖書を読んでいると、イエス様の声が聞こえました。「クリスマスにマルチンのところへ行くよ」。マルチンは驚きましたが、嬉しくて、お茶やご馳走を用意して楽しみに待っていました。
でも、クリスマスの日、イエス様はマルチンのところには来ませんでした。窓越しに外を見ていたマルチンは、雪の降る街を歩いている貧しい親子やお年寄りに気が付きます。そして、イエス様に用意していたものをみんなあげてしまいました。
その夜、マルチンにイエス様の声が聞こえてきました。「マルチン、今日は美味しいごちそうをありがとう」マルチンは「いいえ、私はイエス様に何もしてません、お会いしてもいません」と応えました。しかし、イエスは言いました。「今日あなたが家に迎え入れ、ごちそうしてくれた人たちは、実はわたしだったのだよ。あの人たちにしたことは、わたしにしたことと同じです。マルチン、今日はありがとう。」その言葉を聞いてマルチンはとても幸せな気持ちになりました。
この物語はよくクリスマスの前のアドベントの週に紹介されます。しかし、この教えはクリスマスに限ったことではありません。また、良い行ないをしましょうと励ましている教えでもありません。良い行ないをしようと思わないで、ただただ、今の自分のできることをする。そのことで主は喜んでくださる。それが自分自身を主に献げるということではないでしょうか。
さて、今日も宣言をいたしましょう。
今日の宣言は、日常生活において、「喜びをもって自らを主にささげます。感謝!」です。
では、三回宣言いたしましょう。
「喜びをもって自らを主にささげます。感謝!」、「喜びをもって自らを主にささげます。感謝!」、「喜びをもって自らを主にささげます。感謝!」
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇51篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書5章23-24節。
「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」
黙想いたします。詩篇51篇。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:さあ賛美しよう
https://www.youtube.com/watch?v=9w0iSti2k1Y
賛美⑨:感謝をささげる事は
https://www.youtube.com/watch?v=aNMHLfVa7_A
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の主日礼拝は、11月3日 午後5時から小阪チャペルにて。
いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。
聖書: 出エジプト記36章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/