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メッセージ主題:『み言葉に清められる人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.11.17主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年11月17日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:イエス、愛します

https://www.youtube.com/watch?v=OAYeRIFRjhU

賛美②:イエス、神の子羊よ

https://www.youtube.com/watch?v=rxwG6-4OH6w

賛美③:主の手に我が手を重ね(11月)

https://www.youtube.com/watch?v=XYj6mcSpcn4

賛美④:私の望みは

https://www.youtube.com/watch?v=fo4QmDhUb-o

賛美⑤:わが心の目を

https://www.youtube.com/watch?v=Y-pA6vjYYPA

賛美⑥:あなたのみことばは

https://www.youtube.com/watch?v=W-FTB95OHZw

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年11月17日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第38章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「また、青銅で洗盤を、また青銅でその台を作った。会見の天幕の入り口で務めをした女たちの鏡でそれを作った。」(8)

メッセージ主題:『み言葉に清められる人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待します。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

出エジプト記38章では、祭壇つまり幕屋の中の至聖所に入るまでにある調度品を作る仕様書、幕屋を囲む庭の囲いの作り方、幕屋の建設材料の記録が記されています。その中で、今日は祭司たちが手足を洗う洗盤とその台について注目したいと思います。

洗盤の記述は出エジプト記30章に出てきます。17節から21節です。少し長いですが、復習しておきましょう。

●「洗いのために洗盤とその台を青銅で作り、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。彼らが会見の天幕に入るときには水を浴びる。彼らが死ぬことのないようにするためである。また、彼らが、主への食物のささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、その手、その足を洗う。彼らが死ぬことのないようにするためである。これは、彼とその子孫にとって代々にわたる永遠の掟である。」

洗盤とその台を青銅で作り、祭司たちはそこで手と足とを洗う、それは祭司たちが死なないようにするためである。このことは永遠の掟として守らなければならない。前回の30章の時の解説では、洗盤に直接、手を足をつけて洗うのではなく、柄杓で水をすくって手足を洗うか、別の小さいたらいに水を移して、手足を洗うかであったようだと申し上げました。今回はもう少し深く掘り下げてみようと思います。まずなぜ手足を清めないといけないのでしょうか。もちろん、主の前に対峙するわけですから、身を清めると言うことは、神を恐れる気持ちが表れでもあります。

では、なぜ日本の神事の時のように、水を頭からかぶって身を清めるということをしないのでしょうか。ある方は日本では水が豊富にあるが、中近東の方では水は大変貴重なものであるから、手と足だけを清めることで、身を清めることと見なすとおっしゃいました。確かにこれも一つの理由であり、水の貴重さが、聖書全体に影響を及ぼしているとも考えられます。水なしでは人間は生きていけません。まあ、他の物がなくても生きていけないのですが、特に水がなければ、人間の肉体はすぐ死にます。この水が生存条件最重要要素です。そう思えば、いろいろと水にまつわる聖書の御言葉を思い出すのではないでしょうか。ま、この話は、後ほどするとして、まずは手と足の意味ですが、ある解説書には、「手は日常の働き、足は歩み」だと説明していました。つまり、祭司だとしても人間ですから、人としての営みはある訳です。その人としての営みを、祭司としての役割の時には、全て水で洗い流し、神に仕える者としてふさわしい者になることが要求されているのだそうです。しかし、人の行動は心からきます。神は次のようにサムエルにおっしゃいました。第一サムエル記16章7節

●「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

容貌や表面的な仕草や行動は、全て私たちの目に見えるうわべであります。神は、私たちの中の隠れた心を見られます。ですから、祭司たちが洗盤で手足を洗うのは、決して身体の清めのタメだけではありません、いえ、身体の清めではなく心の清めをしなさいと主はおっしゃっておられるのです。そこで水が問題となります。水は生存条件最重要要素です。しかし、水には私たちにとってもっと大事な役割があります。それが、神の御言葉です。イエス様はおっしゃいます。

●「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(マタイ4:4)

これは、申命記8章3節からの引用ですが、状況を分かりやすくするために2節3節と見てみたいと思います。

●「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」

また、イエス様は、サマリアの女に対して、次のようにおっしゃいました。ヨハネ4章13-14節。

●「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

「渇きをおぼえない水」とは、どういったものでしょうか。外から水を体内に入れるのではなく、体内で水が泉となり身体を潤すから渇きを覚えることがないということでしょうか。では、その水は、、、イエス様からのプレゼント、助け主である聖霊様です。しかし、現実的に私たちはみ言葉に飢え渇きを覚えたり、信仰的に弱さを覚えたりします。聖霊様が私たちの内にお住まいくださっているのにです。それは、私たち自体がこの世にあって完全ではないからです。アップ・ダウンがあって当然といえば当然なのです。ですから自分の足りなさを思って悲観しないでください。その足りなさをイエス様は補ってくださるのですから。

イエス様は、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りの場で、ユダヤ人に対して大声でおっしゃいました。

●「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

まさしく、生ける水とは聖霊様のことであり、助け主の聖霊様は、イエス様の教えを私たちに思い出し、またより理解を深める助けをしてくださいます。ヨハネ14:26

●「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

このことは真理です。そして、

●「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17:17)

とイエス様はおっしゃいます。

ゆえに、水は聖霊様でありまたみ言葉であります、そして、みことばは真理であり、完全な方のお言葉ですから、完全なのです。詩篇では次のように詠っています。詩篇19篇7-10節

●「主のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主の証しは確かで、浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで、人の心を喜ばせ、主の仰せは清らかで、人の目を明るくする。主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」

み言葉をいつもよりたくさんご紹介しましたから、もう皆さんアップアップかもしれません。

さて、ここで今日の中心聖句に戻って、もう一度みてみましょう。

●「また、青銅で洗盤を、また青銅でその台を作った。会見の天幕の入り口で務めをした女たちの鏡でそれを作った。」(8)

至聖所のものは、金または金箔で、金づくめでありますが、幕屋の調度品は、青銅で作られています。しかし、この洗盤だけは、特定の青銅で作るように指示がありました。それは、会見の天幕の入口で務めをした女たちの鏡で作るというものでした。会見の天幕の入口で務めをする女性とは、日本でいえば、神社の巫女さんのような人たちかもしれません。この例えを出してしまうと、この時の女性たちが白装束に身をまとっているかのようなイメージを持ってしまうかもしれませんが、服装の規定は記されていませんし、どういう女性がその役割を担ったのかも記録にありません、少なくても私は調べられませんでしたので、女性の立ち位置がわかりませんが、彼女たちが使っていた青銅の鏡を材料に洗盤が造られました。鏡はその姿を映す、とくに顔を映すもので、磨き上げられていました。しかし、現代の鏡とは違って、そうはっきりとは映りませんでした。ですから、パウロは、1コリント13章12節のところで、

●「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。」

ぼんやりと映る鏡だったに違いありません。しかし、そのぼんやりとしか映らない鏡だったでしょうが、その鏡で洗盤を作るという意味は、何だったのでしょうか。

先ほど、洗盤の水は、み言葉であり、手と足を洗う行為は、結局、心を洗う行為でありました。そして、鏡を材料にした洗盤は、自らを映し、神に対して、罪なきものとされているかどうかを問う、心の鏡なのです。パウロはエペソ人への手紙5章26-27節で次のように言っています。

●「キリストがそうされた(キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた)のは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない。聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

イエス様は、傷のない聖なる栄光の教会を立ち上げるためにご自身をささげられました。神の前にはそのようなものしか近づけないのです。ですから、祭司たちは、至聖所に入るために、鏡で作られた洗盤で、水で手足を洗い、み言葉で心を聖くするのです。

さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきます。八さん熊さん、今日の中心聖句から、私たちは何を学べばよいかと思われますか。

―――――

八: ひぇー、若さん、いつもやったら、今日のみ言葉から何を学ぶかなんて、

ヒントをだしてくれてはって、そんでわてらにぶつけるのに。今日は、直球やな。

熊: いやいや、直球やから、分かりやすいやんか。

八: それ、どういうこっちゃ。

熊: 今日は若さん、いつもより、たっぷりみ言葉だしてはるやろ。

八: そやな、ご自分でもそう言うてはったからな。若さんは、み言葉からみ言葉をつなぐ、

自分のたよりない解釈より、み言葉をつないでいった方が、力があると思てるからな。

熊: そやねん。下手な考え休むに似たりや、ちゅうって思てはるからな。

八: それでも、今日は多かった。いちいち聖書広げて、ページめくってたら、

せわしないところや。ま、若さんは、毎度、「聞いて黙想してください」、ちゅうて、

聖霊様がなにをひとりひとりにお語り下さるかを大事にしようとされてはるからな。

わてらは聞いているだけや。気になる聖書箇所は、あとからホームページに完全原稿が

あるから、それ見たらええこっちゃしな。

熊: 昔の人は、聖書なんて持ってはれへんかったから、聞いているだけやったしな。

八: それで、今日のわてらの学びは何やろか。

熊: まだ気づかんか。み言葉やんか。「み言葉を大事にせぇ、み言葉が命で、

み言葉によってわてらは清められるねんから」ちゅうてんねんやんか。

八: 「み言葉を大事にせえ」ちゅうのは、「み言葉によって生きろ、み言葉を咀嚼せぇ、

み言葉を自分の血と肉にせぇ」ちゅうことか。

熊: そうやがな。み言葉が自分の栄養とならへんかったら、キリストに似るものには変えられ

へん。キリストにつながる、キリストが木で、わてらが接ぎ木された枝や。

木からの栄養分がみ言葉や。そのみ言葉を栄養に変えてくださるのか聖霊様や。

八、さっき言うてたな、「み言葉を咀嚼する」ちゅうて。それって、大事やわな。

八: ああ、咀嚼する動物は聖書では尊ばれる。口に入れたものを自分のものとするために、

咀嚼して自分のものとしていく。ただ単に丸呑みしてしもただけやったら、消化不良で、

栄養がぜんぶ出て行ってしまう。

熊: そやねんな。み言葉を咀嚼することで、わてらはどんどん聖くなっていくはずなんや。

八: 若さんは、よく、「み言葉を味わう」ちゅう言葉、使いはるな。

熊: 「み言葉を味わう」ちゅうのもええなぁ。味もなにも分からずに、胃袋に放り込むんや

のうてな。

八: けんど、「み言葉を味わうん」はええけど、み言葉の鑑定士みたいな者になったら

あかんな。

熊: なんやねん、そのみ言葉の鑑定士って?

八: いわば、、、み言葉にごたくならべて、悦に入っているえらいさん。わてらは、凡人や。

料理研究家でもなんでもあれへん。「おいしもんはおいしい」「まずいもんはまずい」

だけでええやん。他人様がどうのこうのもいらんねん。それと同じで、み言葉を

おいしくいただいただけでええねんて。ようよう味わっただけでええねんて。

あとは聖霊様が栄養にしてくださる。

熊: そやな。信仰は、個人的なもんや。若さんがいつも言ってはる、「いつも喜び、たえず

祈り、すべてに感謝。このことは、イエス・キリストにあって神様が望んでおられる

こと」このことが成就するためには、聖霊様の助けがいるし、またみ言葉という食べ物

がいるんや。せやから、個人個人で味あわなあかんねんやな。もちろん、一人で食べる

んでも、みんなで食べるんでも、どっちもあって、結構毛だらけ猫灰だらけ、や。

八: あんたは虎さんか。

熊: いや、くまったくまった、熊さんです。

八: 若さん、熊が壊れ始めた。ここでバトンタッチ。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。熊さんが壊れるとどうしようもないですから、ここでバトンタッチは賢明ですね。私たちクリスチャンには、聖書のみ言葉がいのちの糧です。モーセ時代のマナはほとんど味がなかったようですが、み言葉は、噛めば噛むほど味が出ます。初めは辛かったり苦かったり塩っぱかったりするかもしれませんが、噛むほどに甘みが感じられてくるはずです。み言葉を味わいましょう。

さて、今日も宣言をいたします。

今日の宣言は、聖霊様に導かれたみ言葉を宝と思って大切にしつつ、宣言します。「日々、御言葉を味わって清められます。感謝!」です。

では、三回宣言いたしましょう。

「日々、御言葉を味わって清められます。感謝!」、「日々、御言葉を味わって清められます。感謝!」、「日々、御言葉を味わって清められます。感謝!」

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇19篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書7章37-38節。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

黙想いたします。詩篇19篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:主はぶどうの木

https://www.youtube.com/watch?v=xdAClkSkCJo

賛美⑨:なんて麗しいイエスの名は

https://www.youtube.com/watch?v=llFb1IB3OYY

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、11月24日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記38章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/