ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2024.11.24主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)
●午後5時開会:ただいまより、2024年11月24日主日礼拝式を始めます。
●祈り
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:罪重荷をのぞくは
https://www.youtube.com/watch?v=N7ej-ynfrjo
賛美②:詩篇100
https://www.youtube.com/watch?v=47gMb8qY1-A
賛美③:主の手に我が手を重ね(11月)
https://www.youtube.com/watch?v=XYj6mcSpcn4
賛美④:主がそばにいるから
https://www.youtube.com/watch?v=ikdWPBdaqd0
賛美⑤:この日は
https://www.youtube.com/watch?v=zQ2SN7GmbzI
賛美⑥:わが喜びの理由
https://www.youtube.com/watch?v=HYt6r1TywiE
【YOUTUBE配信開始】
2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。
年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。
●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)
するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。
人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、
パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。
また、二匹の魚も皆に分けられた。
彼らはみな、食べて満腹した。
そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。
パンを食べたのは、男が五千人であった。
●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)
イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
●2024年11月24日 主日礼拝メッセージ
「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。
そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。
(会衆)
罪の奴隷からの解放
聖別された個となるための務め
神の臨在による神との親しい交わり
●聖書拝読:出エジプト記第39章(新改訳聖書2017)
朗読: 若竹
中心聖句:
「また、聖別の記章の札を純金で作り、その上に印章を彫るように「主の聖なるもの」という文字を記した。」(30)
メッセージ主題:『主の聖なるものとなる人生』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待します。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
出エジプト記39章では、アロンの祭服の詳細とアロンの子らのための衣服の仕様が記され、これで、幕屋建設の準備が完了したことで締めくくられています。
その中で、今回示された箇所は、30節の「聖別の記章の札を純金で作り、その上に印章を彫るように「主の聖なるもの」という文字を記した。」 この純金の札は、28章36節にも出て来ます。大祭司のかぶり物の全面中央につける細長いものです。また、「記章」という語は、「王冠」とか「聖別」という意味だそうです。
しかし、どうでしょう。わざわざ、大祭司も「主の聖なるもの」という、いわば身分証明のようなものを身につけなければいけないのでしょうか。主の目にはその記章をつけなくても明らかであったでしょうし、民も大祭司の服装で分かるでしょうし。この記章は、自覚する意味もあったかもしれません。学校の学級委員長も、誰もがその身分を知っているのですが、そのバッチを着けています。それは、自覚という意味では、責任を表わし、他の人にとっては権威を表わすのかもしれません。しかし、大祭司に「記章」もはめて「権威付け」をする必要があったのかどうか、私には分かりませんが、主のご指示ですから、従わざるをえません。
なぜ、私はこのことにこだわるのかと言えば、レビ記の中には、「最も聖なるもの」という記述があるからです。
例えば、レビ記10章12節
●「モーセは、アロンと残っている彼の息子、エルアザルとイタマルに言った。「主への食物のささげ物のうちから穀物のささげ物の残りを取り、種なしパンとして祭壇のそばで食べなさい。それは最も聖なるものだからである。」
穀物のささげ物は「最も聖なるもの」であるとされています。また、レビ記10章17節では、
●「どうして、あなたがたは、その罪のきよめのささげ物を聖なる所で食べなかったのか。それは最も聖なるものだ。それは、会衆の咎を負い、主の前で彼らのために宥めを行うために、あなたがたに与えられたのだ。」
とあり、神は、動物のいけにえも最も聖なるものであるとしています。
神がお選びになった、神へのささげものは、最も聖なるものでありますが、人間はそうではありません。
レビ記11章45節
●「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」
レビ記20章7-8節
●「あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしがあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたはわたしの掟を守り、それを行なわなければならない。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。」
人間は聖なるものとなる必要があり、またその聖なるものとされるには、神の掟を守り、行なうことでもありますが、最も聖なるものをささげ、最も聖なるいけにえをささげ、その血によって聖なるもの、罪赦されたものとなることなのです。その意味では大祭司の記章「主の聖なるもの」は、務めをする前に俗の世界から、幕屋に入りさまざまな過程をへて、「聖となったもの」であるという、いわば製品に検品の「検」というハンコを押したのと同じ意味があるのかもしれません。この方は「主の聖なるもの」ですよと。
また、レビ記によれば、大祭司だけではなく、民も「主の聖なるものとなるべき」であるので、神へのささげ物を含め、神の掟を守り行うことが要求されています。食べ物の制約も厳格でした。しかし、我々の主、イエス様は次のようにおっしゃいます。マルコの福音書7章18-23節
●「イエスは彼らに言われた。『あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分らないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心に入らず、腹に入り排泄されます。』こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。イエスはまた言われた。『人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。』」
イエス様は、律法という神から出た規制ではありますが、それは行いに関する規制であり、心が汚れていれば、いくらうわべの行ないを繕ったとしても無駄であると説きます。
旧約時代、私たちが「主の聖なるもの」となるためには、主が定められた「主の最も聖なるもの」無傷のいけにえや穀物のささげものによらなければなりませんでした。しかし、イエス様は、心を清くしていただかなくてはいけないとおっしゃいます。しかし、これは何も新しいことではありません。1サムエル16章7節には次のようにあります。
●「主はサムエルに言われた。『彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』」
主は常にわたしたちの心をみておられるのです。
しかし、正しい行いの習慣が心を整えていくということも事実です。私は、このことも重要だと思っています。しかし、福音による救いは別問題です。ヤコブは次のように説きます。2章26節
●「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。」
ヤコブは、信仰のない行いも問題、行ないのない信仰も問題だとしています。信仰も行いもどちらも互いに干渉しあい強められ、キリストに倣うものへと変えられていくのです。しかし、間違ってはいけないのは、私たちは、ただただ恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰に導かれ罪赦され義とされます。救いの後の行いによって義とされるわけではありません。救いの後の行いは、信仰をベースにした自然発生的なものでなければなりません。誰かに強いられてするものではないのです。行いを強調し、助長し、強いるのは、異端の教えだと考えています。
私たち、イエス・キリストを信じる者は、初めから「主の聖なるもの」ではなく、初めから「最も聖なるお方」である神の御ひとり子、イエス・キリストの血の犠牲によって、「主の聖なるもの」へと変えられたのです。
パウロはそのことを、次のように表現します。1コリント6章19-20節。
●「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
また使徒ペテロも同じことを異なった表現で勧めています。1ペテロ1章13-16節。
●「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである』と書いてあるからです。」(レビ11:44-45)
私たちは、目には見えませんが、あの大祭司の「主の聖なるもの」と刻まれている純金の板を、頭に巻いている、それも私たちの心に日夜とどまり続けてくださっておられる聖霊様によって、その純金の板はずっと私たちの頭に巻かれたままなのです。「主の聖なるもの」であり続けさせていただきましょう。
さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきます。八さん熊さん、「主の聖なるもの」としての自覚をどのようにお持ちでしょうか。
―――――
八: ひぇ~、また難しい質問きたでぇ。熊、どう思う?
熊: あほ、すぐこっちにふるな。心の準備ができとらんやないか。
八: さよか、しゃぁないなぁ。「主の聖なるもの」としての自覚なぁ、、、、
若さんもゆうてはったよな、「行ないが義とするんやない」って。
熊: そや、それに、最も主の聖なるお方が、わてらを主の聖なるものとしてくださった。
八: せやから、ペテロはんも、「あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、
生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。」ちゅうってはる。
けんど、「生活のすべてにおいて聖なる者となる」ちゅうのは、ハードル高すぎへんか。
熊: それに、なんかがんばってる感じがただよってるやん。しんどいねんなぇ、それって。
八: そやねんな。ゆとり世代のわてらにとっては、、、
熊: うそつけ、だれがゆとり世代や、昭和のど真ん中やないか。
八: 堪忍、けんど昭和のわてらでも、なんかゆとりをもって「主の聖なるもの」でありたい
よなぁ。
熊: そこやそこ。がんばって、「聖なるもの」とさせていただくちゅうのもしんどい。
八: やっぱり、行き着く先はあそこか。
熊: あ、八もそう考えてる?
八: いっしょに、言おか。せぇーの
熊: 言えるわけないやないか、考えてみぃな。
八: せやな、わてら落語やってるねんから。わてが先、言わしていただくでぇ。
「主に感謝しなさい!」や。
熊: おお、そう来ると思たわ。そんで、いつもの第一テサロニケ5章か?
八: それもええねんけどな。最近、コロサイを読んでて、こんなみ言葉に出会った。
2章6節7節や。
●「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、
キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり
信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。」
つまりは、感謝しつつ、キリストに倣う者になれちゅうこっちゃ。
熊: ええ、み言葉やね。キリストに倣う者かぁ、、、、ある先生がゆうとったなぁ、、、
イエス様の特徴は、大きく分けて四つあるって。謙遜、勇気、赦し、犠牲やて。
八: つまりは、あれか、その四つを思いながら、感謝するちゅうことかい。
熊: ちゅうか、この四つを祈り求めながら、感謝するんやろなぁ。
八: それも普通の感謝やないでぇ、あふれるばかりに感謝するねんやろな。
なにせ、わてらは、何もしてないのに、恵みでイエス様に救われたんやから。
な、若さん。これがわてらの答えや。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。あふれるばかりに感謝する、ですか。いいですね。「主の聖なるもの」の自覚をもつ、つまりあふれるばかりに主に感謝する。感謝こそ最高の主へのささげものですから。
さて、今日も宣言をいたしましょう。
今日の宣言は、あふれんばかりに主に感謝しつつ、「主の聖なるものとしての自覚をもちます。感謝!」と宣言しましょう。
では、三回宣言いたしましょう。
「主の聖なるものとしての自覚をもちます。感謝!」、「主の聖なるものとしての自覚をもちます。感謝!」、「主の聖なるものとしての自覚をもちます。感謝!」
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇26篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ルカの福音書22章31節。
「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
黙想いたします。詩篇26篇。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:主と共に歩む
https://www.youtube.com/watch?v=MVgG3l34ONQ
賛美⑨:主の宮
https://www.youtube.com/watch?v=UlGwD10RZc8
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の主日礼拝は、12月1日 午後5時から小阪チャペルにて。
いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。
聖書: 出エジプト記40章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/