ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル早朝礼拝 2024.11.17
★祈り
★賛美: 『神の国と神の義を』
★メッセージ: 『けったいや、悔い改めのバプテスマ』
マルコの福音書
1章2-4節
「預言者イザヤの書にこのように書かれている。『見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」』そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」
マルコは1章1節の「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」と言うこの福音書のタイトルから、次に、イエス・キリストの出現は、今までの書物に記されていて、その預言者の預言の成就であることを印象づけようとしています。旧約聖書の最後の書物からイエス・キリストの出現までに約400年かかっており、民はその間、救い主を待ち望んでいました。アッシリアをはじめローマ帝国の圧政に苦しんでいた民は、出ては消える偽救い主にうんざりし、失望していたのも事実です。ところが、ここにきて、バプテスマのヨハネが荒野から現れました。バプテスマのヨハネは預言者であり、当時、人里離れた荒野には預言者グループが点在していて、つまり日本で言えば、修行僧のようなグループが荒野にはあって、その中で特に優れた預言者としてバプテスマのヨハネが台頭してきました。彼は、預言者という立場を貫き、「自分はキリスト・救い主ではなく、救い主の出現にむけて民の心を整える者である」と主張します。それが、イザヤ書の中にある「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」と言う意味です。ちなみに、ここで言う預言者とは、神の声を聞き、神の代弁する人のことで、未来を予想する予言、例えばノストラダムスの大予言のようなことではありません。もちろん、神が未来のことを示されれば、それを伝えますし、過去の罪や真実などを示されれば、臆することなく提言します。余談になりますが、バプテスマのヨハネの風貌はといいますと、「ラクダの毛の衣をまとい、腰には革の帯を絞め、その食べ物はイナゴと野蜜であった」(マタイ3:4またはマルコ1:6)ということでありますから、風貌だけみると、私などには近寄りがたい存在なのかもしれません。
その預言者、バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言って、バプテスマを授けます。「天の御国が近づいた」とは、救い主が現れることを意味します。ここでまだ分かりにくいのは、「悔い改める」と言うことと、「バプテスマ:洗礼」ではないでしょうか。「悔い改める」とは、『神の方に心を向ける』と言うことです。「ごめんなさい」と言って謝るのとは根本的なことが違います。「謝る」のは、一つ一つの誤った行為に対して、罪や非を認め、相手に対して謝罪することです。一方、「悔い改める」は、「心を入れ替え、神様を中心とする生活や考えをする」ことです。これが、一回の悔い改めでできればいいのですが、私たちはすぐ神様のことを忘れがちですので、ことあるごとに「悔い改め」が必要になってきます。では、バプテスマ・洗礼とは何でしょうか。バプテスマは「洗い」とも言われている通り、罪深い自分を水によって洗い清める、もちろん私たち自身で罪を洗い清めることはできませんので、神様にお願いするわけです。その決意表明がバプテスマという儀式でもあります。この洗礼は儀式的には、いったん全身を水に沈めるというものです。パプテスマを受けた人は、神に従うものとして新しい生活を始めることが期待されています。
キリスト教のバプテスマ、洗礼式は、イエス・キリストを救い主として信じた人が受けるもので、イエス・キリストの死と埋葬、復活を象徴し、これまでの生活に別れを告げ、イエス・キリストに従う者として新しい生活を始める決意表明であり、周りの人の見守る中で儀式が行われます。
さて、私の洗礼式・バプテスマはと申しますと、アメリカ、インディアナ州、ブルーミントンの大学町の小学校のプールで行われました。教会は、少し離れたところにある、単立ブルーミントン・エバンジェリカル・コミュニティ・チャーチで、そこの牧師であったパスター・フォックスに行っていただきました。総勢十名が洗礼を受けたのですが、一人一人決意表明やらどのようにしてイエス様を信じるようになったかを3分以内で話す予定でした。しかし、もちろん、そんな3分ルールを守らない御仁も出てくるわけで、私の前の方は、なんと20数分という長い演説。またその上、その日6月4日で、学校は夏休みに入っているぐらいの季節なのですが、季節外れで肌寒く、ブルブル震えながら私の番を待っていたことを覚えています。一番災難を被ったのは、牧師先生で、60歳前後のお歳でしたから、1時間以上プールの中はキツかっただろうなと同情しました。さて、私はと申しますと、ザブーンと後ろ向きに倒れ、牧師先生に起こされた時には、ボロボロに泣きじゃくっていました。自分でもびっくりするぐらいでした。今でも、なぜあんなに泣いたのか正確には分からずにいます。なんとなく分かっていることは二つ、一つは嬉し泣きではなかったということです。イエス様を信じて、永遠のいのちの約束に預かったのに、なぜ悲しかったのでしょうか。もう一つは、この世の価値観との決別は、とても重く困難なものだということが肌で感じたということです。
バプテスマである洗礼式の前に、イエス様を信じる決心をしているはずです。そして洗礼式は喜ばしいものであるはずです。なにせ、「生まれ変わる」のですから。しかし、この世の価値観と一線を画すということは、そう容易(たやす)いものではないのです、私にとってはですが。私はそのことから逃げたくはありませんし、またそのことが、自分の十字架を負って生きるということなのかもしれないなと思わされています。イエス様との出会いがなければ、こんなに悩まなかったかもしれないなと思いつつ、イエス様と出会わなかったら、今の自分はないなとも感じるのであります。これから洗礼を受けようとする方、またすでに洗礼を受けた方、もう一度、イエス様のバプテスマのことを考えてみていただきたいと思うのであります。
★賛美: 『御腕に抱いて』
★主のいのり
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
★祝祷
交わりと祈りの時
祈りの導き
小阪地域の方が一人でも多くイエス様を知り、受け入れることができますように。
災害にあわれた方の心の痛みが癒されますように。
ひとりで辛い思いをしている人々に寄り添う方が与えられますように。
ひとりひとりのクリスチャンが喜びをもって主の証人としてたてられますように。
すべての礼拝や集会を通して、主の栄光が現れ、主が喜ばれますように。
次回礼拝予定
12月1日7:00~7:30 マルコの福音書1章5-6節
ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
577-0802
東大阪市小阪本町1丁目3−2 2階
近鉄「河内小阪」駅 南口 商店街横の「吉野家」横の路地奥2階
Lineグループ配信あり 「小阪チャペル 神の家族」
連絡&問い合わせ:若竹孝行 080-3763-3398 wakatake.takayuki@gmail.com