ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル早朝礼拝 2024.12.1
★祈り
★賛美: 『一度死にしわれをも』
★メッセージ: 『けったいや、後ろ向きのザブーン』
マルコの福音書
1章5-6節
「バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」
マルコは1章1節の「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」と言うこの福音書のタイトルから始めて、次に、イエス・キリストの出現は、今までの書物に記されていて、その預言者の預言の成就であることを印象づけようとし、イザヤ書の中にある「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」と言う御言葉とともに、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝える預言者バプテスマのヨハネをキリスト救い主の前に、神が置かれたと主張しています。バプテスマのヨハネは、「自分はキリスト・救い主ではなく、救い主の出現にむけて民の心を整える者である」と主の御心通りに預言者の立場を貫きます。そして、彼は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣べて、救い主キリストの出現を預言し、バプテスマを授けるのであります。
バプテスマの儀式は、水にザブーンと浸かり、「罪を洗い流す」という意味があります。もちろん、「神の方を向いた生活をします」と悔い改め、そのように宣言してから、水にザブーンと浸かるわけですが、では、そもそもですが、バプテスマは預言者ヨハネから始まったのでしょうか。民衆は、バプテスマを新しいこととして受け入れたのでしょうか。
「罪を洗い流す、清め」は、ギリシャ語では、「バプティゼイン」という言葉だそうで、もともとは「全身が水の下に入る」という意味でしかないようです。この動詞「バプティゾー」は「浸す」という意味で、一般的に使われているようです。ですから、洗礼であるバプテスマもその行為に重点が置かれているのではなく、「浸す」行為の後の変化が重要視されます。つまり、バプテスマを受けてからの生活がどのようになるかが重要なのでございます。バプテスマのbefore/afterですね。本来は、このbefore/afterの変化がないとイエス・キリストを心の中心に置いたことにはならないのかもしれません。もちろん、個人差がありますから、急激な変化がある人もあれば、じわじわと変化してくるという方もおられるでしょう。私の場合はどちらかというと、後者の方になります。ザブーンの洗礼式で思わず泣きじゃくってしまったお話は先週いたしましたが、劇的に生活が変わったという訳ではありませんでした。話が、私の洗礼式のことに行きそうなので、ちょっと、本来のバプテスマのことに戻します。
この宗教的に「浸かる」という行為は、ユダヤ教の神殿では、祭司の祭事の前に沐浴をするという行為があります。また、新約時代、エルサレムにおいて、ペンテコステで聖霊が注がれた時、一日で三千人が洗礼を受けたとあります。使徒の働き2章41節。
●「彼(ペテロ)のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。」
三千人もの人が洗礼を受けることができるとはどこでしょうか。エルサレムの神殿の丘には、たくさんの水槽(ミクヴェと言われていた)があり、神殿に入る前に身を清めるため、多くのユダヤ人が利用していたそうであります。恐らく、これらの水槽を利用したのではないでしょうか。
では、私たちのバプテスマ、この「浸す」という宗教的行為は、どこにルーツがあるのでしょうか。ルーツかどうかは分かりませんが、今、小阪チャペルの夕拝では、出エジプト記を学んでいます。まあ、今日が40章目で出エジプト記の終わりを迎えるのですが、出エジプト記の幕屋の建設の指示で、神はモーセに至聖所に入る前に、祭司たちには洗盤で手と足を洗わないといけないという指示があります。出エジプト記30章17-21節。
●「主はまた、モーセに告げられた。『洗いのために洗盤とその台を青銅で作り、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。彼らが会見の天幕に入るときには水を浴びる。彼らが死ぬことのないようにするためである。また、彼らが、主への食物のささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、その手、その足を洗う。彼らが死ぬことのないようにするためである。これは、彼とその子孫にとって代々にわたる永遠の掟である。』」
手と足とを洗わないと、祭司たちでさえも死ぬのであります。この時は、沐浴ではなく、手と足に水をかけて洗うという行為でありました。この手と足を洗う行為も、「世俗的な生活と歩みを洗う、離れる」という意味が込められていました。しかし、これは毎回、幕屋に入る度にしなければならないことでした。それは、いけにえにしても同じでありました。しかし、イエス様のご自身を一度ささげることによって、私たちは罪なきものと見なされるのです。ヘブル人への手紙10章10-14節。
●「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足代とされるのを待っておられます。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。」
そのイエス・キリストを信じた証しまたは宣言としてのバプテスマであります。
さて、今のバプテスマには、浸礼と滴礼があります。浸礼は、浸すという漢字が使われ、滴礼は滴るという漢字が使われます。浸礼は、本来のバプテスマのかたちで、水にザブーンと頭の先まで沈ませ、そして起き上がらせます。死と埋葬と復活を意味します。古い自分は死に、新しい自分として生まれ変わります。ですから、バプテスマ before/after となる訳です。
浸礼は、前に倒れる場合はまれで、ほとんどが後ろに倒れます。鼻をつまんで。後ろに倒れるということは、支えてくださる牧師を信頼しなければなりませんが、これは、イエス様を全面的に信頼するという意味が込められています。沐浴ができない状況にある場合は、滴礼といって水を頭に滴らせる儀式を行います。残念ながら、滴礼の場合、浸礼にあった「死と埋葬と復活、そして信頼する」という意味合いは薄くなってしまいます。洗礼がまだの方は、できるだけ浸礼のバプテスマをお勧めします。
どちらにしても、バプテスマが最終目的ではなく、信仰生活の始まりであり、バプテスマ後の聖霊による変化が重要なのであります。
どうか、バプテスマには、「死と埋葬と復活、そして信頼する」という意味合いが込められていて、そして、バプテスマの後の生活が大切になってくることを考えてみてください。
お祈りします。
★賛美: 『主の栄光宮に』
★主のいのり
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
★祝祷
交わりと祈りの時
祈りの導き
小阪地域の方が一人でも多くイエス様を知り、受け入れることができますように。
災害にあわれた方の心の痛みが癒されますように。
ひとりで辛い思いをしている人々に寄り添う方が与えられますように。
ひとりひとりのクリスチャンが喜びをもって主の証人としてたてられますように。
すべての礼拝や集会を通して、主の栄光が現れ、主が喜ばれますように。
次回礼拝予定
12月8日7:00~7:30 マルコの福音書1章7-8節
ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
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