ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2024.12.15主日礼拝式
(早朝礼拝午前7時~、夕拝午後5時~、夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。早朝礼拝と夕拝の聖書箇所及び内容は異なります。)
●午後5時開会:ただいまより、2024年12月15日主日礼拝式を始めます。
●祈り
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:神の御子にます
https://www.youtube.com/watch?v=OgR5Ts2Mszk
賛美②:イエスよ愛の手を差し伸べて
https://www.youtube.com/watch?v=-2fFzfPkwW8
賛美③:インマヌエル麗しい御名(12月)
https://www.youtube.com/watch?v=qL2eZaI1Exs
賛美④:イエスよ十字架に
https://www.youtube.com/watch?v=uebpS6ypY8g
賛美⑤:カルバリの十字架
https://www.youtube.com/watch?v=TAzi7b4zuww
賛美⑥: さやかに星はきらめき
https://www.youtube.com/watch?v=v8-8VUp0kng
【YOUTUBE配信開始】
2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。
年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。
●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)
するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。
人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、
パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。
また、二匹の魚も皆に分けられた。
彼らはみな、食べて満腹した。
そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。
パンを食べたのは、男が五千人であった。
●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)
イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
●2024年12月15日 主日礼拝メッセージ
「ルカの福音書」は、医者であったルカが異邦人を対象にして書いたイエス・キリストの記録であり、聖霊の満たしと働きを強調し、また私たち一人一人がイエスに出会うことを目的としています。
●聖書拝読:ルカの福音書 第2章(新改訳聖書2017)
朗読: 若竹 41節~51節。
中心聖句:
「すると、イエスは両親に言われた。『どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。』」(49)
メッセージ主題:『神をアバ父と呼べる人生』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待します。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
ルカの福音書第2章では、イエスの誕生、天使羊飼いにイエスの誕生を知らせる、イエスの宮参りとシメオンとの出会い、イエス12歳のとき両親とはぐれ、神殿での談義。その中で、今日は、イエスが両親とはぐれ、両親がイエスを捜す中、見つけたのは、イエスが神殿の境内で学者たちと談義しているところ。そして、今日の中心聖句は、そこでのイエスの言葉です。
「すると、イエスは両親に言われた。『どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。』」(49)
子どもは、興味があることがあれば、親の心配をよそに、すぐそっちに行ってしまいます。親が目を離したすきに、迷子になってしまうケースも多い。約1週間続く過越の祭り、エルサレムへの巡礼でありますが、村々や親類縁者で固まって旅をしたそうで、団体で旅行しますから、大きな団体ですと長い行列になってしまいます。まあ、のんびりと旅を楽しむことも一つのレクリエーションでもあったのでしょう。さしずめ、日本の江戸時代ですと、お伊勢参りといったところでしょうか。弥二さん喜多さんで有名な十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で見られるように、伊勢詣でが目的というより、それは名目上であって、旅そのものが目的であった、そのようなエルサレム巡礼ではなかったでしょうか。そういう状況の中で、この事件は起きてしまいました。エルサレム巡礼も終わり帰りの旅ですから、誰もが気がゆるんでいる状態です。マリアもヨセフもしっかり者の長男イエスが旅の一行の中にいるものだと思ってしまったかもしれませんし、他の幼子たちに気をとられていたかもしれません。イエスがいないことに気がついて探しに探し、とうとうエルサレムまで戻って行ってしまいました。そして、三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしているのを見つけます。そして、マリアは言います。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」この言葉には、「あなたは長男なのだから、もっとしっかりしてもらわないと困ります。」という意味合いが入っていたかもしれません。それに対して少年イエスの返事がまた可愛げない。
「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」いやぁ、これ、何度聞いても、可愛げない言葉です。親であれば、迷子の子をふつうは捜し回ります。それも三日も、音信不通ですから、心配しないわけはない。それを「どうしてわたしを捜されたのですか。」「捜さなくてもまっすぐエルサレムへ来られたらよかったのに」「わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」「わたしが神の守りの中にいることを、ごぞんじなかったのですか。だから、そんなに心配する必要はなかったのですよ。」いやいやいや、しかし、親はそれでも心配します。3日間も神殿の中、またはまわりにいたということは、食事などはどうされていたのでしょう。どこで、寝泊りしていたのでしょう。親はそういう心配もします。そこのところはルカは何も書いていません。そこのところは重要ではないので、省かれてしまっているのかもしれませんし、ユダヤのコミュニティでは、親からはぐれた子供の面倒をみんなでみるということなのかもしれません。まあ、それはともかくとして、この少年イエスの言葉は不可解です。例えば、現代の子供が遊園地で迷子になって、迷子センターにかくまわれているとしたら、迷子の子供を捜してきた両親が迷子センターにたどりついて、「もう方々捜したのよ」という親の言葉にたいして、「わたしが迷子センターにかくまわれていることは、当然で、ご存じなかったのですか」と言い返されてしまった時、どういう反応をしめすでしょうか。この迷子の少年のことばはなかなか言えない言葉です。しかし、少年イエスは臆せず、「わたしが自分の父の家、神殿にいるのは当然です。」そして、あろうことか、神殿を自分の父の家と言ったのです。
当時のユダヤ人は、神殿を自分の父の家とは表現しません。神は神です。近寄りがたい存在であり、また、旧約聖書にもそのような記述があります。あのモーセでさえ、あの燃え尽きない柴のところで、神から、●「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」モーセはこの時、日常的に履いている履き物を脱ぎ、非日常の場所に足を踏み入れたのです。父の御許に来たという感じではありません。
その意味でも、イエス様は特別です。イエス様は、公生涯においても「わたしの父の家」という表現を使っています。
●「わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」(ヨハネ2:16)
●「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。」(ヨハネ14:2)
そして、この表現は、わたしたちの信仰生活に影響をあたえました。
パウロはローマ人への手紙8章14-17節で、次のように、私たち、イエス・キリストを信じる者が、イエス様が与えてくださった聖霊さまを通して、神の子どもとされたことを強調しています。
●「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもでもあることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」
「アバ」とは、幼児語であって、はじめて父親を認識する赤ちゃんが口にすることばだそうです。それは、人からそう教えられたから出た言葉ではなく、前もって心の中に埋め込まれていた言葉が父親の存在を認識したときに、心に浮かび上がって来るようなものなのです。
そして、その橋渡しをしてくださるのが、イエス様であり、聖霊様であるのです。イエス様を通して、天の神を「アバ父」と呼べる恵みに感謝し、大いに御座に近づこうではありませんか。
さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきます。八さん熊さん、八さん熊さんもお祈りするときに、天のお父様と呼ばれると思うのですが、その時の天のお父様のイメージはどんなものなのでしょうか。
―――――
八: 「天のお父様」って、わてら、主の祈りで「天にまします我らの父よ」って、
神様のことを天のお父様と当たり前のように呼んでる、わてはあんまりイメージを
考えて、祈ってないような気がするわ。
熊: たしかに主の祈りはインパクトつよすぐやわな。わてなぁ、「天のお父様」ちゅう
イメージよりも、自分が「子として」どう天のお父さまと向き合っているかが、
問題なんかもしれへんなぁ。と思てるねん。
八: 「子としての向き合い方」か。それやったら、わては、親父殿をてこずらせてばっかり
やなぁ。いっつも、早合点して、先走って、失敗する。親父殿がついとる、いけいけ
ゴーゴーやって、親父殿が手を振り切って猪突猛進。そんで、気がついたら道に迷っとる。
熊: せやなぁ、八はいっつも走っとるからなぁ。わては、八がうらやましいでぇ。わては、
八とちごて、石橋をたたいても渡らん、尻込みがつよいもんや。親父さんが、さあ、
こっちきなさいって、手をだしてくれてはるのに、よう行かん。背中押してくれはって
るのに、へたってしまう。なさけないんやけど、どうしようもない時もあるねん。
八: たしかに熊はいったんこうと決めたらてこでも動かん。
熊: いや、動かんのやのうて、動けんのや。けんど、こんな情けないわてやけど、
天の親父さんは、ちゃんと帳尻あわしてくださってるちゅうか、あたたかく見守って
下さってるちゅうか。
八: それは、わても同じや。走って突っ走ってようよう失敗してると思ってるんやけど、
親父殿はそのことも見通して、わてを誘導してくれてはるような気がするねん。
わてら性格って、なかなか変えられへんし、まして熊もわても、神様の子やけど、
違いがたくさんある。けんど、最終的には、子として、親父殿とどう向き合っているか
ちゅうたら、やっぱり信頼やろなぁ。
熊: 若さん、いっつも、主に自らを明け渡すことが大切やちゅうてるけど、子として親父さん
に明け渡してるかちゅうたら、そうでもないかもしれん、と言わざるをええへん。
けんど、さっき八が言うように、親父さんを信頼してるかちゅうたら、
「当たり前のこんこんちき」や。
八: それやそれ。そこにな、「主に自らを明け渡す」難しさがあるんやろな。
熊: 「アバ父」と呼べるには、幼子のような素直なこころが必要なんとちゃうやろか。
八: ああ、マタイの18章のところにある、イエス様のお言葉やな。
●「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、
決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を
低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」(18:3-4)
熊: 自分を低くすること、まあ、謙遜やわな。イエス様はそれが大事やちゅうてるんやな。
決して幼稚な信仰と言ってはるわけやない。
八: けんど、その謙遜ちゅうのがまた難しいんやわ。
熊: わてが言いたかったのは、謙遜というよりは、素直さちゅうか信頼やわな。
子が親父さんを駆け引きなしに信頼する、それが「アバ父」に込められているのと
ちゃうやろか。
八: なるほどなぁ。わてら、このぐらいしか分からんわ。これで、今日のところは勘弁して。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。子として、天のお父様をどう見ているか、それも大切な視点ですね。私は、主に絶対的な信頼を置いています。ですが、だからといって、すべてにおいて主に聞き従っているかと言われれば、自分の思いが先行している時もあるだろうと感じています。私はいったん、これが主の御心だと感じた時には、人に何を言われようとも変えるつもりはありません。その道が閉ざされるまで踏みとどまります。もしも私がまだ生かされている理由があるとすれば、まだ生きて用いられるでしょう。「すべてはみこころのままに」そして生かされている間は走り続けます。
さて、今日も宣言をいたしましょう。天の父への信頼をゆるぎないものとするために宣言したいとおもいます。
「何があっても天の父を信頼します。感謝!」と宣言しましょう。
では、三回宣言いたしましょう。
「何があっても天の父を信頼します。感謝!」、「何があっても天の父を信頼します。感謝!」、「何があっても天の父を信頼します。感謝!」
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇37篇1-24節です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マルコの福音書12章30節。
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
黙想いたします。詩篇37篇1-24節。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:聞け我らの賛美
https://www.youtube.com/watch?v=rh-5cTvhLMk
賛美⑨:大いなる方に
https://www.youtube.com/watch?v=MtPvndH5rrk
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の主日礼拝は、12月22日 午後5時から小阪チャペルにて。
いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。
聖書: ルカの福音書3章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/