ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2025.1.5主日礼拝式
(早朝礼拝午前7時~、夕拝午後5時~、夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。早朝礼拝と夕拝の聖書箇所及び内容は異なります。)
●午後5時開会:ただいまより、2025年1月5日主日礼拝式を始めます。
●祈り
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:主イエスの御側に
https://www.youtube.com/watch?v=AUHSxZk2K5E
賛美②:主の臨在の中で
https://www.youtube.com/watch?v=mQXgy6j51Kc
賛美③:私の願い(1月)
https://www.youtube.com/watch?v=fZlTdqVWdNY
賛美④:いつも喜んでいよう
https://www.youtube.com/watch?v=A7xvMST4fIk
賛美⑤:主の栄光宮に
https://www.youtube.com/watch?v=xiFWYdYM6FU
賛美⑥: 主を仰ぎ見て
https://www.youtube.com/watch?v=Viar5edeGzU
【YOUTUBE配信開始】
2025年の年間の指針は「共に主を喜ぶ」です。
年間聖句は、ネヘミヤ書8章9-10節です。
●ネヘミヤ書8章9-10節(新改訳聖書2017)
総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全体に向かって言った。『今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。』民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。さらに、彼は彼らに言った。『行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。』
●2025年1月5日 主日礼拝メッセージ
「ルカの福音書」は、医者であったルカが異邦人を対象にして書いたイエス・キリストの記録であり、聖霊の満たしと働きを強調し、また私たち一人一人がイエスに出会うことを目的としています。
●聖書拝読:ルカの福音書 第5章(新改訳聖書2017)
朗読: 若竹 27節~39節。
中心聖句:
「まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」(39)
メッセージ主題:『十戒も大事にする人生』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待します。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
ルカの福音書第5章では、イエスがガリラヤ湖畔で、漁師であるシモン・ペテロ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟に、「人間をとる漁師にする」と言って、彼らを弟子としました。そして、重い皮膚病の人や中風の人を癒やされ、また、徴税人であるレビ、別名マタイも弟子としました。また、パリサイ人や律法学者たちがイエスやその弟子が断食をしないのを非難すると、花婿(イエスのこと)がいるのに付き添いの友人たち(弟子たち)に断食をさせはしない、花婿が奪い去られる時が来ると、彼らも断食をすると反論し、布切れと皮袋の譬えを持ち出されました。
今日も、お話しようとすれば、できる箇所がいっぱいあるのですが、その中で皮袋の譬えに注目したいと思います。37節から39節をお読みいたします。
●「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」
新しいぶどう酒には発酵力があり、弾力性がなくなって硬くなった古い皮袋に入れると、袋を張り裂いてしまいます。イエス様は、このぶどう酒と皮袋にかけて、キリストの恵みという新しい生命力に満ちた教えは、古い律法主義の生活様式の中には入り切らず、新しい生活様式が必要となるとおっしゃっておられるのです。律法主義とは、本来の神がモーセにもたらしたいわゆるモーセ律法の真の自由なる精神を忘れ、人が付け加えていった条文にとらわれすぎて、窮屈な生活を強いるもので、自分で自分の首をしめている生活様式です。一方キリストの恵みは、キリストの十字架による人の罪の赦しと、復活による永遠のいのちの約束、つまり、キリストを信じることによって人は義とされ救われるという、神の愛ある憐れみです。キリストの福音は、律法主義にがんじがらめになって疲れ果てている人を自由にするのです。ですから、古い皮袋に例えられた律法主義の中には、キリストの福音は入りきれないのです。ですから、イエス様は新しい皮袋、つまり律法主義から脱却した新しい生活様式のなかに、キリストの福音は自由に広がっていくことができると説いたのです。
33節では、パリサイ人や律法学者たちが、イエスの弟子たちが、断食し祈ることをしないと非難しました。事実、イエスの弟子たちは、漁師や取税人たちという、身分の低い人たち、エリート集団であるパリサイ人や律法学者たちが見下していた人たちでした。ですから、「断食し祈る」ということが、あまり弟子たちにはピンと来ていなかったかもしれません。そこを知りつつ、パリサイ人や律法学者たちは、イエスを糾弾したのです、律法主義を振りかざして。ところが、イエス様は、その攻撃に対してたじろがず、●「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか」と問い詰めました。花婿はイエス様のことで、花婿に付き添う友人とは弟子たちのことだということは、パリサイ人や律法学者たちにも分かったはずです。そして、間髪入れず、イエス様は、古い衣に新しい布切れを継ぎ当てには使わない。古い皮袋に新しいぶどう酒を入れないという譬えを話されました。律法主義とイエス様の福音とを対比させたのです。恐らく、彼らは怒り心頭したはずです。あたかも、古い皮袋や古いぶどう酒が否定されたと思ったからです。
ところが、イエス様はその後で、今日の中心聖句●「まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」とおっしゃいました。
私は、以前この言葉の意味が分かりませんでした。また、他の牧師先生の説教を読んでいても、「新しいぶどう酒は新しい皮袋」の話に集中していて、この「古い物が良い」という聖句の解説がなかなかありません。ずっともやもやしていました。パリサイ人や律法学者たちが、新しいぶどう酒であるイエスの教えをまずいと否定することは理解できます。しかし、なぜイエス様は「古い物が良い」とおっしゃったのでしょうか。初めは、これはイエス様流のいやみかとも思いましたが、イエス様がこんな厭味を言うかな、いや、言わないだろうという結論にたっしました。
では、いったい「古いぶどう酒」とは何のことでしょうか。「古い皮袋」は、律法主義の窮屈な生活様式。「新しい皮袋」は、福音を中心とする自由な生活様式。「新しいぶどう酒」は、イエス様の福音。そして、「古いぶどう酒」とは、律法。はじめはそう思っていました。「律法」というと、私たちは「律法主義」を支える「ややこしい細則まで含めた律法」だと思っていました。しかし、次のイエス様の言葉を思い出したのです。マタイの福音書5章17節。
●「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。」
イエス様がおっしゃっておられる「律法や預言者」とは、旧約聖書全体です。しかし、イエス様は律法主義に犯された、人々を苦しめている細則律法、パリサイ人たちがパリサイ人たる所以、パリサイ人のアイデンティティとする細則律法に対して、嫌悪していたのです。イエス様の言うところの「律法や預言者」に代表されるのは、神がモーセに授けたモーセの十戒、モーセの律法であります。この神からのモーセの律法を成就するためにイエス様は来られたのです。
そして、イエス様がおっしゃる「古いぶどう酒」とは、「モーセの十戒」のことではないかと、示されました。そう考えると、「古い物は良い」というのは、「モーセの十戒は良い」と言うことになります。「古い酒」は「古酒」とも言われ、まろやかで高価なものです。神からの贈り物である「モーセの十戒」は本来は、まろやかでとても良い物なのです。私は、イエス様がこのことを怒り心頭しているパリサイ人や律法学者につきつけたのではないかと考えています。本来のモーセの十戒はとても良い物で、これをきちんと味合わないといけない。それが基本であり、またイエスの福音はその上に立つものであることを。
ある方は、私たちは新約時代に生きているものだから、モーセの律法は必要ないとおっしゃいました。私は逆です。イエス様が大事にされたモーセの律法の精神を大切にすることこそが、イエス様がお喜びになることだと考えています。この機会にモーセの律法を味わってみましょう。
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。
それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
教会では、このモーセの十戒も大切にしたいと思います。今後は、このモーセの十戒もメッセージの前に復唱したいと思います。
さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきます。八さん熊さんは、「モーセの律法」をどのように思いますか。
―――――
八: 「モーセの十戒」は、やっぱり大切やろな。けんど、わて、この中で3番目の
「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」これのなぁ、
「みだりに唱えてはならない」の「みだりに唱える」ちゅうって、どんな「みだり」
やって、思てるねん。
熊: それって、イエス様のおっしゃったことに通じてるでぇ。ほら、マタイの7章21節。
●「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」
八: それってあれやわな、「イエス様の御名によって、悪霊どもよ、立ち去れ!」ちゅうて
奇跡を行うことでもあるんやろ。
熊: そや、マタイの7章22節や23節にもあるけど、ルカのほうがよう分かるかも。
10章20節。
八: あ、それも知ってるわ。
●「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が
天に書きしるされていることを喜びなさい。」やろ。
熊: イエス様の名によって悪霊を追い出したり、預言をしたりすることは、とても偉大な
ことや。けんど、それは、人に救いをもたらすわけ訳やない。イエス様に悔い改めて、
信じて、信頼して救われれば、悪霊はおのずと遠ざかっていくはずや。ちゃうか?
八: まぁ、そうとも言えるわな。けんど、それにわては、イエス様が悪魔の誘惑を蹴散らした
とき、聖書の御言葉を用いはったやろ。そやから、イエス様に信頼するだけやのうて、
聖書をよう読んどかなあかんのとちゃうやろか。サタンの束縛いや呪縛かな、それから
解き放たれるには、イエス様の福音を信じ切ること、わてらはイエス様の十字架の血潮
によって、すでに救われているちゅうことを確信して、聖書の御言葉にとどまらな
あかん。わてらは、すでに天のいのちの書に名前が残されてるんやからな。
イエス様を疑うことによって、名前が消されるなんね、まっぴらごめんや。
熊: 本当に大切なのは、天におられる父のみこころを行う者や。
八、天におられる父のみこころを行う者って、だれや? 何するねん?
八: 神様のみこころを行う?それはやっぱり、1テサロニケの「いつも喜び、常に祈り、すべ
てに感謝」とちゃうか。「イエス・キリストにあって、神が望んでおられること」って
言われるんやから。
熊: そうや、けんど、わては、イエス様の山上の垂訓にもヒントがあると思てんねん。
八: 山上の垂訓?あの幸福論か。
熊: 幸福論?
八: ほら、「心の貧しい者は幸いです、悲しむ者は幸いです。柔和な者は幸いです。
義に飢え渇く者は幸いです。あわれみ深い者は幸いです。心のきよい者は幸いです。
平和をつくる者は幸いです。義のために迫害されている者は幸いです。
イエスのためにののしり、迫害、悪口を受ける者は幸いです。」
ちょっとはしょったけど全部ゆうたった。
熊: なんやねん、そのやった感。もう情けないなぁ。まあ、ええわ。この「幸いです」ちゅう
のは、イエス様を信じ救われた人を対象にしてるんや。ほんでもんて、そういう人は
どういう人なんかということを説き明かしてくださってる。ある先生は、
これはモーセ律法のキリストによる解き明かしやともおっしゃってはる。
八: そうか、幸福論やのうて、どういう人が天において幸福なのかを言ってくれてはったん
やな。それはそうと、その山上の垂訓と「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」
とどう関係するんな。
熊: せやから、主の御名によって、癒やしや悪魔祓いは預言というような、人の目をひくこと
をすることが、救いを導くことやない。山上の垂訓には、人の目を引くような目立った
ことをせぇゆうてゆうてるんとちゃう。どちらかちゅうたら控え目な信仰生活や。
それこそが、救いにあずかった人の生きる道やちゅうこっちゃ。
八: そうか、せやから、信仰によって義とされ、救われた人は、モーセの律法にあるような
生活をせなあかんでと、神様はおっしゃってはったんやな、あのイスラエルの民に。
熊: そやで。モーセの律法を守るから救われるんやない。そこをパリサイ人や律法学者たちは
勘違いして、律法を守らへんかったら救われへんと説いて回ったんや。
八: はは~ん。これで、なんか分ったような気がするわ、イエス様が「古い物は良い」と
肯定したのが。イエス様によって、モーセの律法の本当の意味を説き明かして、
「救いの道はイエスにあり」、ちゅうのを唱えはったんやな。
いやぁ、ちょっとスッキリしてきたかも、な、若さん、これでええんやんなぁ?
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。イエス様の山上の垂訓が、モーセ律法の解き明かしであり、それによって、モーセの律法は、救いの道ではなく、イエス様の福音を信じた者、イスラエルという神に選ばれた者がちが、歩むべき道をしめされたものであることが明らかになりましたね。感謝いたします。そのことによって、イエス様が「古い物は良い」とおっしゃった真意が見えて来ます。イエス様の名によって奇跡や偉業を行うことが、救いの道に導くのではなく、すでに救われた者が歩む道、モーセの律法や山上の垂訓にみられるような道が神のみこころの道であるということです。八さん、熊さんに感謝です。
さて、今日も宣言をいたしましょう。派手なこと目立つことが、救いの道ではなく、控え目とも思われる、地道な信仰生活こそが幸いなのであります。そのことを覚え、次のように宣言いたしましょう。「地道に天の父の御心を行います。感謝!」と宣言しましょう。
では、三回宣言いたしましょう。
「地道に天の父の御心を行います。感謝!」、「地道に天の父の御心を行います。感謝!」、「地道に天の父の御心を行います。感謝!」
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇33篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書12章50節。
「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」
黙想いたします。詩篇33篇。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:聖なる主
https://www.youtube.com/watch?v=ImpITijFCJ0
賛美⑨:その日全世界が(1月)
https://www.youtube.com/watch?v=i7ud1Ujytsc
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の主日礼拝は、1月12日 午後5時から小阪チャペルにて。
いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。
聖書: ルカの福音書6章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/